何事にせよ言語化すると「違う」感じがするのは、その表現の適切さや記憶の変質以前に、心が際限なく流れているからだと思う。内面的な思考や連想と、感覚器からの情報処理(外部への対処)に伴い常に変化している。もしその変化の中で、予期せぬことに動かされた心を、動かされたその時に表現したら言葉ではなく、叫びや、踊りや、走りになるだろう。だから言語化の一番の効用は、心の沈静化ではないかと思う。興奮を収めながら、偶然を受け入れ経験にする。物語を書くのとはまた別の話ではある。心の動きを言葉にすると何か違うが、しないと気持ちが悪いという意味では言葉にすることは消極的に気持ちはいい。
私が文章を書く主な理由は、他者と自分が違っていることを示したいからである。皆違っているのは生物学的な事実なのに、この社会では黙っていると勝手に誰かと同じものとされてしまうのが嫌だからだ。他者を楽しませる表現や、叫んだり走ったり笑ったりするような感情に乗っている表現の方がずっとよいと思うが、日々起こる偶然に向き合う為に、つまらない文章を書いては白けさせているのである。言葉で説明するつまらなさは、居心地の悪い社会で生きる為の、心の安定につながっている。
老化や経験の蓄積は避けられず自分の在り方も変わり続けている中で、変わらないと思っているものや変わりたくないと思うものが、自分にとって大事なものになる。だが変わっていくこと自体を大事にしたい場合、他者には理解されにくい。理解される部分は明らかなことや変わらないことであり、曖昧に変わっていく状態自体を指し示すことは難しい。理解されるともされたいとも思わないが、違っているものの一つとして、自分に起きたこと位は出来るだけ理解したいとは思う。表現する前は同時に/無秩序に/色んな大きさの思いがあるので、言葉に落とし込まれた時点で表現前よりもわかりやすくなってはいる。自分への慰めである。
認識は知覚した情報の統合と解釈、その対応の為に自分の経験や知識を参照する過程で意識されるもので、車窓の風景を見ているようなものと私は思っている。自己認識もその都度「私」を示す情報の塊を呼び出し「私が誰か」を再構築しており、必要に迫られると「思い出すのが私」だ。認知症とは何らかの理由でこの再構築がうまくできなくなる状態であり、しばしば自分が誰か忘れて生きている私は既に結構近いような気はする。認知症は本人が望んでないなら悲劇的だが、今がいつで、ここがどこで、自分が誰かも本当にどうでもよくなっていたとしたら、何かから解放されているとは思う。何かって何だろう。社会か。
雨上がりの夜更けに人気のない道路を自転車で走っている時など、私は調子に乗っている。調子に乗っている時は、思考の速度も上がっている。頭の中は物理制約から自由なので速度は無限に上げられる。地球で一番速いのは地球だから、もし頭の中でその速度を出せたら私は地球最速の頭脳を持っていると言える。調子に乗っている。だが地球の速度を想像し始めた途端に、心は外宇宙を動く地球にイメージが固定されてしまい止まってしまう。意識は定めず、固定せず、流れるままにしていた方が速いのであり、連想に身を任せている方が調子がよい。
調子が悪い時は固定したイメージに頭が捕らわれてしまい、全ての作為がうるさい。作為の裏に願望が透けて見えて鬱陶しい。自分が書く文章も他人事に感じるし、その言葉を選んだ作為に腹が立つ。その状態から救ってくれるのは他人の文章だったりもするが、自然を眺める方が早い。私は自分をすぐ調子に乗る人だと思っているので、他者の前で自分の願望を出すのが苦手である。それを優しさと勘違いされることもあるが、調子に乗らないよう自制しているだけである。他者に対して臆面なく願望を出せるのは、例えば麻雀をしてる時などである。場で他者と共有された規則に乗ると、願望は出しやすくなるのかもしれない。尚、酒で自制を外すのは私の場合は絶対的に悪手である。
誰にも邪魔されず好きなことをしている時は意識は滞りなく流れ、思考速度も上がっている。その状態のまま他者とやりとりできたらストレスはないが、日常で他者と合わせるのは難しい。自分の意識を走らせることを優先させると周囲と衝突するので周囲の流れにも意識を開いている。ちなみに他者とのストレスのない高速のやりとりを意図的に再現できるのが演劇である。再現する場を用意しその場で共有できる規則を作る。それを用意なく当意即妙に行おうとして失敗し続けるのが日常ではないかと思う。場の流れに乗るべく即興で対処するのは演劇でも行われているが。
演劇は意図的なうその上に作られるものだが、うそは日常にこそ溢れている。例えば宝くじなんてと思っていても買ってしまうことがある。金が要り様になると不安に思う時や、誰かが当たったというのを聞いた時など「1枚数百円だし」と買ってしまう。価格設定も買う側の心理を見越した売る側の意図的なものだ。一人が知覚できる情報は限られているので、常に願望や妄想が知覚できない部分を埋めている。個人的な常識と願望が紡ぐ物語=うそは日常的に作られている。それを利用した虚業は求められるものだと思うし、うそはまだ確定していない状態に関するものだから、自由であるとも言える。話が逸れたが私はうそは今後も利用していくのだと思う。
心の変化や意識の流れなど内面的な部分について書いてきたが、物理的にも人は液体のようだ。体重のおよそ6割は水分だし、体表にある無数の穴から絶えず水分が出ていて補給しないと死ぬ。水分と共に老廃物も出していて、体は微細な菌が常在する場所でもあり、水と老廃物を通じて共存している。他者との触れ合いにも水分が媒介するものもあるし、触れ合わなくても目から出る水が他者の心を震わせたりする。結局内面の話に戻ってきてしまったが、これは私の個性についての話でもある。
私が個としての自分に強くこだわれないのは、自己認識が流動的だからだ。経験から固体になりつつある部分もあるが、それらを統合する自己は確立しておらず、それでいいと思っていて、液体的に周囲と混ざり合っている。酒が好きなのも酔うと自他の境界が曖昧になり、溶け合っているような錯覚を起こすのが心地よいからだ。だが錯覚であることもわかっていて、実際には他者と距離を置いてばかりいる。自他の境界がなくなり、混ざり合うだけだと一気に死んだりするので、線引は自己保存のためにも必要だ。混ざり合うことは否定せず、求めることもあるのに完全に同化することは恐れている。それは誰もが多かれ少なかれ感じていることだろうし、境界線の引き方、中身の選別の仕方に個性があるのだと思う。
建前は変わらない態度でわかりやすい一方で、自然は流動し混ざり合うのでわかりにくい。心は建前と自然を交互に且つ同時に意識しているので、何か問題がある時には意識はそれぞれの立場から問題に対処している。それがどういうことかといえば、極論するとあらゆる問題は自分に関係ないとも言えるし、全て関係あるとも言える。液体的には世界で起きていることは全て自分事である。誰かが幸せならそれでいいし、辛いなら自分も幸せではない。だが誰かが食べて私の腹は膨れないし、日の当たらない狭い場所にじっとしているのは辛い。どうしようもない点は受け入れるしかないわけで我慢もしているが、そもそも我慢する必要があるのか、どうしようもないのかは人によって判断が異なる。だから個人の違いを表現することは心の安定とは別に、社会的にも意味のあることではないかと思う。
社会では各自が調子に乗って、好き勝手なことを言ったりやったりしていられる方がよいし、本来それができる場であるべきだと思う。多様性は結果的にそうなっているだけのことであり、参加者の心構えに自然があれば勝手に保存されていく筈だ。だがそうなってないのは社会が未熟だからであり、私も未熟だからだと思う。人間はわからないことは想像で補わないと生きていけないが、生きる上で何を大事にするかは各自が決められる。その基準を他者任せにしたり自分に都合のよいものとして考えることを止めると楽だが、いずれ利用されるだけなので辛くなる。
他者を強制しないように自分も強制しない。混ざり合ってはいるが、完全に同化はしたくない。私の液体的な自己イメージは、誰かと共有できるものだろうかというのがこの文章を書いた動機である。また情報の共有と子供の教育は近いところにある気がするし、成熟した社会ともつながっている気がする。少なくとも他者に与えられた正しさを疑わないことより、何故そうされているのか考える方が良い。経験の少ない子供でも、自分で判断できるようになったら大人と対等に付き合える。私が言うことも強制はできないので、子供に何かを教える時にはできるだけ説明ではなくその子独自の解にたどり着けるよう意識して、環境に働きかけられたらと思うが、結局こうやって言葉で説明してしまうんだろうとも思う。間違うのも、勘違いするのも全然問題ないが、誰かを傷つけていることにも気付かないまま、自分を省みなくなる人にはなって欲しくはない。習慣的に内省して気付けさえするなら、仮にどんなにクソバカだと思ったとしても、安心して何かを若い世代に託せる。何か、流れていくものを。