ポップス、歌謡曲、歌詞があり旋律のある曲に、街で出会い切なくなることがある。先日も通りすがりに店からチャットモンチーの曲が聴こえてきて「切ない」と思った。曲にまつわる思い出がある訳でも、自分を重ねた経験がある訳でもない。昔よく聴いていたという事実だけで、十分に切ないのである。加えて橋本絵莉子の歌声はとても正直な感じがする。普遍的な表現という前に、個人的な思いの表現における正直さを強く感じることが、切実さに繋がっている。「よくわからないが、これは本当だな。切ないなあ」と思わせるのである。
私が思い入れを持って曲を聴いていたのは、青森にいて都会に憧れていた18歳までである。ユーミンや山下達郎の声に聞き惚れ、坂本龍一の曲などを聴いては「都会にはこの情景を幻想した人がいるのだ」と素直に嬉しかったものだ。フィリッパ・ジョルダーノのCDを聴いた時は「生きててよかった」とすら思った。表現する人ってすごいな、特別なんだなと思った。後年好きになる津軽三味線はその頃はうるさいだけだった。人も人生も、表現も知らなかった。
都会に出てからは映像表現と向き合い、沢山映画を見て価値観が翻弄されていく最中、押井守の作品は逆の意味で印象的だった。好きな作品もあるが、趣味に走っていてつまらないと感じるものも多く、そのつまらなさが好きになった。「他者にとってつまらなくても、確信を持って自分が好きなことをしていればよいのだ」と思った。だが自分で作ってみると感情を正直に表現できない。感情の出力が弱くて知覚できないことも多くて、本当に好きなことがよくわからない。好きなものを作りたい願望と、何が好きなのかわからない事実とが曖昧に混ざり合っていた。
自分の感情がよくわからなかったので、願望や欲望の検証を一旦保留することにした。人間についてはとりあえず部分的な知識で捉え、感情も化学物質以上に考えるのを止めた。それが私の正直なところなのだと思いつつ、「社会における嘘の効用」とか「自然に生きるとは」を考えた。自然に抗わない在り方を考えることは悪くなかった。「行動を偶然に委ねること」「その場に集中すること」で、願望の源でもある自我を忘れることはできると確信した。
壁に穴を空けてしまったらネズミ達の世界があったとか、洗面所の排水溝にしか見えていなかった部分はよく見るとネジだったとか、観察の解像度を上げると認識できる事実が分厚くなる。また料理をすることで改めて自分の好きな味を知る等、感覚器官を意識的に動かすことで願望も事実として自覚できた。私の場合自分の好きなものや願望を知るには、体の外側に意識を集中させる必要があったのだと思う。舞台に上がることもあったが「何を考えてるのか全くわからない」「だがそれがいい」と言ってくれる人もいて、何にでもハマる場所はあり得るのだと思った。
表現において願望は後から乗っかってくるもので、まずは事実がどうあるのか認識できていないと始まらない。自分に何ができるのか、外からどう見えるのかということも認識に含まれる。何がどうなっているのが事実なのか、自分が事実をどう捉えているのか確認した上での願望である。検証もなく、最初から願望の上に組み立てられた表現はつまらない。先述した押井守の映画も、ベースにはリアルな銃器の描写があったのだろうし、それに萌えない私にはつまらないが、萌える人にはおもしろいのだろうと思わせるものはあった。
子供の頃から「表現者ってすごいな」と思っていたが、実際に作り手と接してみると「確かにすごいが、すごくないところもある」とわかってきた。目的意識や技術の確かさや知識量、社会への目線等々、創作サイクルがグルグル回っているのはすごい。だが方法を見つけているかどうかの違いはあれど、普通の人間である。私は表現者を普通の人間扱いしていなかったのだと思う。坂本龍一が『戦場のメリークリスマス』に出ていた頃、哲学者の大森荘蔵と対談している。その中で「表現する前にはモヤモヤだけがあり、表現された後にそれが想像していた通りのものなのか、確認することさえできない」などと言っていて、そうだなあと思った。目的意識はないかもしれないが、皆モヤモヤに動かされて何かを表現しているのである。
表現は偶々その人が居合わせる時と場所での出会いに意識を向けることから始まる。結果としてひとつも同じものがないのは当然だが、出会い自体は等しく誰にでも起きているからこそ、感動するのではないかと思う。感情の動きは単体では起こらない。出会いなどの外部要因、刺激を受けて内部にモヤモヤが発生する。これを収まりのよい(自分で納得できる)形にしたいとか、吸収しつつ排出したいというのが「願望」なのだと思う。日々発生するモヤモヤは、坂本龍一の言うようなモヤモヤより単純なものだろうが、繋がっていると思う。
主語が大きい文章になってしまい恐縮だが、生物の定義は未だに完成していない。恒常性とか進化とかいう言葉も、前提に「生物であること」があるために使えない。だが「本体を維持する目的で外側にあるものを摂取し不要なものを排出するもの」というのは生物の在り方のひとつではある。生物Aにとって不要なものが、生物Bにとって必要だったりするのは、土の中の微生物と植物の関係などでも見受けられる。生物にとって必要であれば排泄物を摂取することは自然である。スカトロジー的に排泄物を摂取せよと言いたいわけではなく、他者が出したものを摂取して生きているのは、人も同じだろうということである。
何が言いたいかというと、表現を排泄に例える言説について、確かにモヤモヤを制御したいというのは生理的欲求だが、そうして外側に出されるものは本人にとっても周囲にとっても「不要なもの」ではないということだ。表現の定義を押し広げると、生物の活動全てが表現になる。外側からは見えず自分でも見定められていない何らかのモヤモヤによって行われ、新たな情報を生じさせる。この情報を摂取しないと、人は生きていけないのではないかということだ。表現は不要物の排泄ではなく、人が生きていくのに必要な「情報」を生み出す行為なのだと思う。
抽象的な話になるが、表現によって新たに発生した情報は、事実認識の新たな側面になる。他者が発した情報と自分の認識を組み合わせて人は事実を掴もうとする。自分が生きる世界がどんな場所なのか、人は感覚が不完全ゆえに正確に知る事ができないからだ。すばらしい場所、面白い場所と思える情報は、その人にとって価値のあるものだし、ひどい場所、つまらない場所と思える情報もまた、なんとかしたいと思わせる別の表現の契機になるだろう。
体は作りからして違うから、当人が感じているように他者が感じることはできない。私が表現を面白いと思う理由である。昔の映画を見ていると、差別や偏見も刷り込まれている。私の好きな大林宣彦の『青春デンデケデケデケ』にすら、同性愛が1960年代の田舎町では揶揄されて当然だったという描写がある。だが表現は事実認識の新たな側面であり、ここはひどいと思えばひどいと言えばいい。表現した当人に伝わることで認識が更新されたり、また別の表現の可能性にもなる。批評の正当性であり、批評が存在しなくなる方がヤバい社会になる。
先日twitterで、今年春に鳥取市にオープンする一日一組限定の宿「ハマヴィラ」のサクラレビュー大賞を頂いた。開店前でまだ内装も出来ていない時点で、自分が泊まった様子を想像してレビューを書いたのである。要は嘘なのだが宿泊券を頂いたので、まだ実現していない未来を引き寄せたとも言える。驚いたしとても嬉しい。
自分の表現が自分の未来になった。評価してくれる他者がいてくれたお陰だ。表現することが生きていくことに繋がっている実感はワクワクする。本当に嬉しい。