先日都心から山と川の近くに引越した。妊娠中の妻と一緒である。家賃は半額になり、部屋は10平米広くなった。これまで休日にわざわざ電車で出かけていた自然が、徒歩圏内に溢れている。地図で見れば前より山の近くだが、生活に車が要るような山奥ではない。徒歩や自転車で十分買物もできるし、周囲にある飲食店は何故か全て居心地がよく美味い。住んでみて気付いたが各種手続きをする役所も近いし、家は作りのしっかりした集合住宅で、思っていたよりずっと静かだった。何より長らく一軒家の一階に住んでいたので念願の日当たりを得て、いよいよ不満が無くなってしまった。子供の有無に関わらず毎日の生活費は稼がなければならないし、引越前と変わらず収入は不安定なままである。紛れもない貧乏人だろうし、人によっては生活困窮者に見えるかもしれないが、環境に満足なので心は穏やか、というか無である。必要以上に何かせねばという気にならない。そして私は40歳になった。
40年生きてわかったのは、この世界は何でもありで、何がどうなっても世界は世界であるということだけである。誰に訊いても「そりゃそうだ」と言われるようなことだが、生きている時間が増えるに従いそれを「然り」と感じる気持ちも強くなっていくようだ。どんな些細なことでも矛盾に気付くと解消したくなるものでつい正解を求めてしまうが、正解自体が問題を設えて初めて成立する仮初である。答を求めて能動的に学んだり場所を移したりせずとも、ただ生きながらえるだけで正解に当てはまらない例外との出会いは増えていくものだし、全ての総体としての世界も変わり続けていることに気付いていく。自分の中にある正解の根拠は過去に立てた問いであり、問いを立てた時の自分も世界も既に変わってしまっている以上、問い自体が現在と齟齬がある。だから厳密さを求めれば求める程に完全無欠、永遠不変の正しさは存在し得ない。それでも正誤を積み重ねることに意義を見出し新たな問いを立て続けるか、矛盾ごと受け入れとりあえず問うことを保留するか。状況に応じてどちらか選択することが自然や世界に向き合うということで、それが当然ということなのだと思う。
自然に、つまり何者かが総合的に意図した通りではなく、個別の意図の集合として自動的に変化し続ける世界はその性質上、人の意を介さない。変化の意を持とうが持つまいが勝手に変化し続けるのであり、もし人が滅んでもその仕組は変わらない。もちろん世界を意図的に変えることは可能である。人も世界の一要素なので、多くの賛意を得られる意図を提示できれば、その方向に変わる。私もできれば世界は「よい」方向に行って欲しいしその為に自分にできることはするが、世界に自分の意図的な変更を求める気持ちがない。その代わり、その場の思いつきで動ける自由を保っておきたい気持ちがある。思いつきとはいえ、自分の体の管理人である私という意識にも個体特有の価値観や状況がありそれらに基づいて行動するわけだが、思い通りにいくわけがないことは経験から身に染みているので、基本的に不満がない。何より自分が感じたこと、考えたこと、思いついたことをそのままやれることが重要で、結果は重要ではない。ただ自由を阻害するものに対する警戒心や抵抗心があるだけである。ひどい世界を受け入れつつ、否定もしつつ、自分の自由に固執しているだけである。
気圧の変化の影響で少し具合が悪くなり、尻の下に枕を敷き横になった妻のお腹で子供が動いている。外から手で触ったり、声をかけると動かなくなるので歌おうと思ったが、まともに歌える歌がひとつもない。とりあえず思いついた唱歌やアニメの歌を歌ったら、子供は動きまくった。興味を持ったのかもしれないし「うるせえ」と騒いだのかもしれない。考えてみればまともな歌を自信満々で歌ったところで子供にどう聞こえたのかわからないのは同じであるし、反応があって嬉しくなった。妻は前の家では寝つきが悪く、寝しなによくお話をせがまれた。オチは用意せず話し始めると景色が見えてくるので、見えたものを説明するだけでいいので簡単である。何も思いつかない時は聞きたい話を尋ねて、それをヒントに連想すればよい。メッセージもないので気楽であり、何なら自分が眠くなったら終わらせたりもしたが、概ねうまくいったようである(多分)。子供の頃はよく「思いつきで動くな」と叱られたが、やっぱり思いつきで動く方がいい。無計画にわからないまま偶然得た思いつきという指針に、自分が動く根拠を委ねる。考えるのは後からでいいし、場合によっては考えなくてもいい。というのは無責任だろうか。付き合わされる方は困るだろうから、ある程度は考えているつもりではあるのだが。ふわふわの不惑である。