書くとは情報の新しい組み合わせを作ることだと思う。と同時に、言葉に落とし込む過程で不要とみなされた情報を捨てることであり、言語化は意識下にある記憶の圧縮でもあるのではないだろうか。断片化した記憶や知識をまとめ、物語や概念として言葉で認識し直すことで圧縮し、似たものなど必要に応じて並び替え、それらの間を詰めて整理することで、まとまった空き領域を確保する。記憶は脳以外にも保管されている気はするが、記憶を司る機能は脳の海馬にある。仮に記憶が脳だけにあるとして、意識下に空き領域が増えるとその分思考にリソースが回せそうな感じはする。もっとも私は脳科学にも全然詳しくなく、以上はHDDにおけるデフラグメンテーション(情報の断片化の解消)を、脳における書くことに置き換えてみただけである。
情報の断片化(wikipediaより引用)
凡例: □ = 空き領域、■・◆・★・● = ファイル
1.初期状態■■■■■◆◆◆◆◆★★★★★□□□□□
2.ファイル◆を削除する■■■■■□□□□□★★★★★□□□□□
3.削除したファイルよりサイズの大きいファイル●を記録する■■■■■●●●●●★★★★★●●●□□
ファイル●の占めるサイズが■に続く空きに合わないため2つに分断された。これを断片化という。
この状態で、ファイル●を読み出そうとすると両方の場所へアクセスしなければならない。
記録された媒体がHDDの場合、一続きの領域へのアクセスに比べ、一続きでない領域へのアクセスは時間がかかるため、動作が遅くなる原因になる。
一方言語化の際に捨てられた(言葉にされなかった)情報は完全に削除されるかといえば、やはりPC同様に情報本体は残っており、無意識の領域に移動させられるだけだと思う。言語化されなかった情報たちは意識のインデックスからは外されている(タグは残っているかもしれない)が、また意識下に出てくることがある。それは再度言語化が試みられた時だけではなく、情報同士が勝手に結びつき新たな意味を持った時にも出てくる。無意識下での組み合わせによる創作や発見だ。寝ている時に見る夢は、情報整理の際にランダムに意識に登った情報がもたらす体験と言われているが、勝手に結びついた無意識下の情報の塊の場合もあるのではないかと思っている。
コンピュータの仕組を参照して、意識の働きに重ねてみるのは面白い。結局は仮定に過ぎないが、わからないものの動作原理を探るリバースエンジニアリング的な面白さがある。例えばネットを使う時のコンピュータと意識を重ねてみると、SNSは専用アプリで見ることが多いが、検索する時は専らブラウザを使い、知りたい情報が得られそうな検索ワードを当て込んで投げている。この時点で本人の認知のフィルタがかかっているのだが、この認知のフィルタというもの、独自の物の見方だが、何からできているのかといえば独自の経験である。見方は経験から導き出された仮定であり、経験をどう記憶しているかに関わってくる。話をコンピュータに戻すと、検索するとブラウザはリクエストに応じて関連する情報を表示してくれる。ここでブラウザはキャッシュというものを生成するのだが、私が経験として記憶している情報もこのキャッシュと似たところがあるのではないかと思う。
キャッシュとは表示するページのデータを、一時的にコンピュータに保存しておく機能(または保存されたデータ)を指す。再度同じページにアクセスした際、ネット上のデータではなく保存されたデータを参照することで、ページをすばやく表示させる為にある。この「次回すばやく表示させる」というのは、認知のフィルタの目的そのものではなかろうか。体験がどういうものであり、自分にどう影響を及ぼしたかを記憶し、また同じような出来事に遭遇した時に参照する。「前回はああだった」と想起することで、より素早く適切な行動を目論む。毎回同じようだと「これはこういうもの/ことである」として、物の見方が単純で強固になっていく。要は決めつけであり、高を括ることでより判断が早くなっていく。
もちろんキャッシュと記憶を同じように考えるのは無理なところもある。体験で晒される情報には言語以外にも沢山種類があるし、そもそも人間はコンピュータのように情報を正確にコピーし保存することができない(事実を正確に受け取れない)。知覚の限界もあるし、認知のフィルタ越しに受け取った情報は願望の影響を受けて、意識下では都合よく解釈されるからである。だが体験で得られる情報を「その時だけのものに過ぎない」と捉えることは、自分の認識を疑うきっかけになる。自分が受け取った情報が事実かどうか、また自分が正確に解釈できているかどうか疑うのである。「記憶なんてそんなもの」と思えば、気楽に古いキャッシュを手放し、また最新の情報を得ようという気にもなれる。キャッシュを意識的に更新していくことで、認知のフィルタを「自分だけの現実」と客観視することが出来、より事実に適応したものに近づけていけるのではないか。全ての出来事は長い目で見れば偶然である。当然経験も偶々そうだったに過ぎないのだから、次も同じことが起きるとは限らない。また間違った情報を事実と解釈してしまい、認知が歪んでいくのは出来るだけ避けたい。
私は記憶力には特に自信が無く、大学受験時の記憶力が容量・保持力それぞれ100だとすると、現在は記憶量は5、保持力は-5くらいだ。長年大酒を飲んだから、脳の海馬もかなり萎縮しているだろう。だが海馬が縮んで情報へのアクセス機能が衰えているとしても、情報本体はどこかに保存されているはずである。私が文章を書く意味は特にないと思っていたが、書くことでデフラグやキャッシュ削除をしているのかもしれない、と思ったのであった。