私は現実という語句を「個人的に事実と感じたこと」という意味で使うことが多い。仮想現実も現実だし、想像、願望、勘違いも現実である。現実は人の数だけあり、それが即ち事実ではない。そういう現実を見てる人がいるというのが事実である。現実は新しい視点を得るだけで容易く変わるという点でも事実とは異なるし、事実よりは作られた物語や映画の方に近い。私が他者に興味を持つのも、外面の差異と同様に現実に差異があるからだ。もし自分の現実を他者の現実と全く同じだと考えたり、検証もしないで事実そのものと思い込んでいるとしたら相当きつい。と書くと潔癖な感じがするが、実際に会って話している時は他者がどういう状態なのかよくわからないし、自分も気を抜くと混同してしまいがちではある。現実と事実を重ねる気持ちよさも知っている。わかったつもりになれるし安心できる。でも想定外なのが自然であり、安心ばかりしてるとうっかり死にかねない。だからせめて文章で整理しておきたい。現実現実うるせえなと思われるだろうが、私は現実と事実を混同していたり、事実を都合よく決めつけていると思うと、自分のことは棚にあげて苛々してしまうのだ。以下は私が認識している社会の話である。社会は人の現実がせめぎ合う場だ。現実と事実の違いなんて知っとるわという人は、読む必要もないかもしれない。でも社会的価値が結局一番大事だよね~な人が、一顧だにしないことは書いてあると思う。ただし例のごとく長い。既に長い。
--------------------------------------------------------------------
私は何故か生まれてきた以上は、出来るだけ楽しく生きたい。楽しく生きる前提として、生きるのに必要なものをまかないたい。運良くまかなえればいいが、運が悪ければ生きていけない。だから社会の力を、直接的には知り合いの、間接的には知らない人の力を借りて生きている。人は判断を間違うものだから、欠点を補い合うことで自然の混沌に対処しようとしてきたんだと思う。最初に集団が出来た頃にはそうでなかったとしても、運に関係なく個人を生かす為に整えられてきた仕組が社会だと思っている。いや思いたい。もし不備があれば改善を試み、足りない部分は参加者同士で補い合う、そういうものであって欲しい。私も勝手に参加させられているが、社会の運営は参加者自身ということになっている。国民主権とはそういうことであり、一部の政治家の願望に国民が我慢を強いられるのは異常だし、機能不全の現れなのである。福祉や相互扶助の精神は現在の社会にも含まれているが、実際は後回しにされたり、収税の理由にされるだけで建前に過ぎないようである。必要最低限協力し合えて、尚且つ主体的に運営に関われる集団は、参加者が増えると難しくなっていくのかもしれない。国民主権も建前だ。でも改善できないと結局は行き当たりばったりになるので、参加する意味も薄れてしまう。自然が混沌としているのは良いも悪いもない事実であり、仕組を整える上で前提の自然を直視できない集団、特に私が住む国は、未熟というより異常だと思う。与党政治家は何かしらの「宗教」に洗脳され目が死んでいるし、野党政治家は相手とまともな話ができな過ぎて目が死んでいる。余計なお世話だろうが、知恵を出し合う前に、まず現実と事実の混同を解消すべきじゃないかと思うわけである。
異常な社会が改善されない理由は、異常と思う人が過半数を超えてないからだ。実は知らないだけで既に超えているのかもしれないが、過半数の異議申し立ては公にされていない。日常的な感覚では、生活が苦し過ぎてそれどころじゃない状態にあるか、現状を異常と捉えられない「そういうものでしょ」とか「この国では無理だ」といった諦念が大半だったように思う。諦めたくなる気持ちはわかる。元々自分が社会に参加している自覚があっただろうかといえば私はなかったのであり、むしろ距離を置きたかった。権力ゲームに参加して経験を積むのも、キャリアを積むことさえ嫌だった。因習を自分の中に取り入れるのが怖かったのである。自覚がないから社会問題も放置する。でも完全に孤立するより楽だから、異常な社会でも参加してる体でやり過ごしてきた。なんて卑怯、なんてズルい。それが私であり、あまつさえ「私には何も変えられない」と思い込んでいたのである。だが思い込みは妄想であり、現実と事実の混同に過ぎない。私の認知の歪みが、政治家の独善に都合よく沿ってしまっていたというのは最悪である。特に私はこれまで長く虚業に関わってきたから、猶更そう思うのかもしれない。嘘と事実の境目を見据えていたつもりが、結局は嘘の方しか向いてなかったのだから。独裁国家は国民の現実を権力者に都合のよいものにするのであり悪い意味でよくできた仕組である。人は楽しく生きるべきだが、認知を歪ませて楽をしていてはいけなかったのだ。異常な社会のツケを払い続けるハメになった。
一番の問題は権力にある。権力の重視は認識を歪ませるので、事実の軽視に繋がっている。女性差別にも気付かず文化や風習として、権力を暗に肯定した刷り込みが私にもあった。テレビで目にする娯楽にも、周囲のふるまいにも常識として差別があった。私は権力志向は人の本性だとは思わない。改めて考えてみると「他者に永続的に自分の力を及ぼそうとすること」自体が不自然である。全ての人が異なっているため、組み合わせによって自然に発生するのが本来の力関係であり、不均衡は状況の変化により解消したり、また生じたりするだけのものだ。永続的というのも、自分の意志で力を及ぼすというのも、不自然な願望である。力関係に拘る人が重視する肩書もその人自身を表すものではないし、形式や体面への固執は生産性を下げるので要らない。肩書、形式、体面、全て想像上のものであり、拘る人の現実の中にしか存在していない。自分が偉いと思っている人にロクなやつはいないが、その根拠が肩書にしかない人も相当数いるのはかなりヤバい。彼らを傷つけないよう気遣うのは疲れる、なんて言ってる場合ではなく、自分の命にも係わる状態である。権力ゲーム以外で世界を見られない人が、全体が生き残る為に動くはずがない。コロナ禍において今日も「社会的弱者」が殺され、自分もいつ殺されるかと思えば絶望的な気分にもなる。全然楽しくない。他者に否定的な感情を持たせ、苦痛を強いることは害悪そのものであり、権力には社会的価値すら全くないのである。
権力に囚われた人は権威失墜=死とでも思ってるのか。いや権力者は嘘をついていいし、権力のない人から搾取していいし、嘘をさも事実のように語れる才能や、嘘がバレたら上手に言い逃れられる能力があればこそ権力者でいられるとでも思っているのか。権威を保とうと必死に周囲に強制してまで自分の正当性を守ろうとするのは、やはり現実を事実と混同しているからだろう。この価値観はどこから来たのかといえば、子供の頃から刷り込まれてきたのである。子供は大人の言うことをとりあえず信じる。子供を支配しようとする大人は不都合を隠し、不機嫌に振る舞うものだ。虚偽に気付いた子供は、大人にとって何が不都合なのか理解し、体裁を取り繕うことを覚える。虚偽を隠して体面を守るのが正しいと思い込んだ子供は、権力重視の価値観を内在化した大人になり、また周囲を傷つけていく。子供だった頃に覚えた怒りや悲しみ、大人への失望はずっと残っているだろうが、間違った大人の真似をするようになった人が「自分が傷付いていたこと」を認めるのは稀なようだ。親など自分に影響を与えた人を否定したくないのかもしれないが、親も間違うしクズな部分もある。人として見ればこそ、間違った価値観の刷り込みは拒絶してよいのだ。なんてことを書きながら、私は早々に親と精神的にも物理的にも距離を置いたのであり、早い話が対決から逃げた。その話もいつかするかもしれない。ともあれ、自分の経験や周囲からの刷り込みを疑ったり、内省すること自体を止めてしまい、自然を無視した価値観の再生産が広く長く行われてきた結果の、現在の社会なのだろう。まだ続きます…