私の友人の中には「書かないと頭が狂って壁に向かって独り言を言い続けてしまう」という人もいる。「俺面白いっしょ!という今までの表現じゃなくて、個々人の過不足を埋めあったり、個人の需要に対応するのが今の時代」という人もいる。私は「自分の状況を説明し続ける人」だ。自分の視野の狭さは自分で判っているし、他者に答を求められている訳でもなく、基本的に意味はない。壊れた録音再生機のように、自分の意識が今感じたこと、思ったことを説明し続ける。リアルタイムに喋ると迷惑なので、できるだけ書くことでまとめてから吐き出すようにしている。頭が狂う程ではないが、書かないと心が重くなる。以下もそんな文章になります。
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人の生物的な価値は何をしようと死ぬまで変わらないが、信用や信頼のような社会的価値は何をするかによって変わる。命は意識が生まれる前に偶然作られたものであり、全ての命の価値は等しい。生物的な特徴である「成長や老い」で変わるように思われるのは、社会的な価値の方である(恋愛市場などの類における価値)。私が度々この話をするのは、必要以上に社会的価値を求めない方が楽だからであり、自分がいる場所から見えたもの、経験したことを表現している方が楽しいと思うからである。
私が思う社会的価値は「他者を喜ばせること」だけである。方法は問わない。一人でも喜ばせられたらその人には社会的な価値がある。例えばオタクは社会的価値が高くなりやすい状態にあると思う。自分がいる場所から見えたもの、経験したことの中でも「好き」の表現は他者を喜ばせ得る。好きとは生きる力を最も増やす気持ちであり、強い表現や作品にもつながっていく。私の好きな芸術家も、きっとオタクである。好きの情熱に触れた他者は、生きる力が生み出したものに力づけられる。ただ自分や周囲の生命維持より好きな状態の最大化を優先させていく傾向がある為、周囲は巻き込まれて疲弊したり心配することもある。だが最終的に生み出されたものに喜ぶ気持ちが上回った時、やはり作者の社会的価値は高いのである。
一方「好き」という観点において、アル中は充実の対極にある虚無に属する状態である。現在進行形の好きをどこにも見つけられないので、生きる力が萎える。気に入らない現実や責任から逃げ、自分からも逃げる為に、酒で現実を変質させるのである。私は医者にかかったことはないが、元アル中である。酒乱を自分のアイデンティティの一部と自覚していたこともあり、間違いなく酒を飲むことに依存していた。アル中であること自体が、好きなものが見つけられない自分や社会を否定する表現である。それを見て喜ぶ他者もいるかもしれないが、アル中は圧倒的に他者を傷つけるだけの場合が多く、相互扶助の邪魔になるので、社会的価値は低いのである。
私は虚無からは脱却できたが、熱狂的な固執は持てないままである。自分の状態を説明しまくるような、他者にとってつまらないであろう状態にある自分にも納得しており、必要以上の社会的価値は求めていない。怠惰なだけかもしれないが、全ての私と違っているものに興味を持てるし、ある程度の自由さえ確保していられたら、何にでも幸せを感じられる。それでもあえて私の「好き」を挙げると「変異」だと思う。子供の頃から朝から天気が悪くて夜みたいだと異常に興奮したし、誕生会の暗闇で灯されるロウソクの火にもやはり飛び跳ねて興奮した。また欲しい物は特にないが、日用品はいつも切らさないでおきたい気持ちがある。消耗品だけでなく、家電や自転車など今は無いと困るものは揃えておきたい。変異とは対極の安定を望んでいるようにもみえるが、日用品は消費されることにより、日々減ったり壊れたりしていく。調味料や洗剤を使い切ると達成感を感じるし、長年使ったものが壊れると、自分も壊れたように感じる。この変化を味わう為に安定を求めるのである。ちょっと危ない。
平家物語などの影響もあり「無常」と聞くとネガティブな反応をされ易いが、状態の日常的な変化や突発的な変異は楽しいことでもあると思う。楽しめるようになると自分の在り方も含め、大概のものに対して固執する気持ちが薄れていく気がする。固執が薄れると優しくなれる。興味を失くすではないところがポイントである。無常とは自然そのもののことであり、私は自然大好き作為死ね野郎なので無常も大好き、偶然万歳なのであり、いつか意識が消滅したら作為も消えて、死という自然そのものになれる瞬間を楽しみにしているのである。
価値についての話に戻る。表現はすぐに価値が問われがちだが、社会的な基準に当てはめる必要はないと思う。評価で確定されるのはゲームの得点に過ぎず、自分の表現は自分で面白ければよい。自然に生じていく自分と他者との差異はそれだけで個性なので、私などは面白がってばかりいるが、それはある種変態的なものだとも思う。ともあれ社会的な評価や洗練は無視して、自分だけが居合わせた現実を見て考え発信している方が楽しい。楽だし、それだけで自分が生きていたことの確認にもなる。自他の痛みや傷や喜びに注視しつつ、生物として在ることを実感できたらよいと思う。
そもそも生活の安定や、娯楽や、限界への挑戦以外に、人が同じルールやコードに当てはまる必要はない。生きていく上では限界を超える必要も殆どない。同じ規にはまると社会的価値を求める競いが生まれる。競いでは要素に点数や優劣が付けられていく。ゲームやスポーツに限らず、出世、恋愛、市場経済など、全て競争状態として捉えると、本来非論理的で混沌とした生物の、関係性や意欲や目的がわかりやすくなる。競いはわかりやすいから安心でき、語る上でも便利なので好まれているようだが、私は苦手だ。また狭い仲間意識も要らないと思う。必要な時に協力し合って互いに生き延びることを良しとする価値観さえあれば、それで充分なのではないか。自然に起こった情ならまだわかるが、仲間という建前を守れと迫ってくる勢力からは全力で逃げていきたい。無茶なことをしない限り放っておいてほしい。
表現に社会的な基準に従う洗練は不要だが、自分の基準からみた洗練は求めていけたらよいと思う。怠惰な中にも成長はあるし、何より前のままだと飽きるからである。自分の基準をどう作るかというと、既にできている。意識しなくても、選択する時に使われている。社会的な基準や建前と関係なく、自分が何故それを選択したのかわからない時、それは単なる偶然ではなく自分の基準に合っている。どうでもいいから考えなかったつもりでも、やはり自分の基準に沿った選択にはなっているだろう。既にある自分の基準が何なのか自覚することは大事だと思う。あらゆる表現に共通して言えるかっこよさとは「必要なことがわかっていること」である。もしかっこよくなりたいなら、まずは事実を知ることからだろう。
かっこよさだけでなく「面白い」も「わからない」の中にある。それは自分にとって未知のものだけでなく、既知と思ってたものの中にも確かに存在する。別の角度から又は寄り引きして見たり、壊してから改めて見たりすると、必ず発見がある。また理解が深まったとしても、なぜそれが起きたのかは偶然であり、なぜそうなっているかは根本まで突き詰めると、自然とそうなったとしか言えない。仮に途中で人為的な作用があったとしても、人の意図が影響する範囲は狭い。意図させた理由も時間軸を長くしてみると、やはり自然、偶然なのである。
私が作為が嫌いで自然が好きな理由は、自分のわかる、わかったたつもりを飛び越えてくる自然のわからなさが面白いからだ。常に自分の知覚外でも新しい現象が起きているのだろうから、全てを理解することは不可能だ。でも自分に直面した現象については自分なりに理解しようとはしており、理解することで自身からできるだけ作為を取り除き、自然に死を迎えたいと思っている。それまでは自然に打ちのめされて生きたい。驚き、足場が揺らぎ、不安定になるわからなさこそが、生きている実感が得られることなのである。自然を面白がることは、常に不安を含んでいる。不安に慣れることで、社会的価値のない自分でも幸せでいられるのである。