これまで私は個性について「生きていれば自然と出来てくるものでこだわる必要はない」と書いてきたが、それは客観的に認識できる「内容」の話でしかない。各人が主観的に生きている時間、したこと/しなかったこと、出会ったものたちに対し働いた意識、その総体としての自己などは他と代替不可能であり、常に変化し続ける「自らの在り方」へのこだわりには意味があると考えている。自分が必ず死ぬ存在として、それぞれが生きるそれぞれの歴史は尊重されるべきであると同時に、今この瞬間も自分が自分として舵取りしているという意識は「楽しく生きる」為に必要だと思う。
自分が死ぬとわかっているから、哲学が必要になる。必要というか、わざわざ哲学をしようなどと思わなくても、自分の生が有限であることに気付いた瞬間から、誰もが哲学を始めている。「死ぬまで自分はどう生きたいか」という問いに、行動しつつ答えを模索し続けることが「自分の人生を生きる」ということだろう。志は、自己意識と同様に「その問いが心に浮かぶ度」に再構成される。答は概ね変わらないのが普通だろうが、価値観を変えるような出会いがあると、影響を受けて変わるのも当然だと思う。どういう基準で何を選ぶかは、客観的な判断をしているつもりでも主観で決めているのであり、その決め方はその人だけの歴史が根拠にある。内容や変遷がどうであれ、できあがった価値観もその人だけの絶対的な個性である。
毎日買い物に行くスーパーがあるとして、家から店までのルートは自分で決められる。引越などで店の存在を知った段階ではルートは1つか2つしかない。毎日通う内に、周辺の地図が体に入ってくる。先に地図を見て覚えようとしたところで、実際にその道を通らない限りは体感としてルートを選択できない。距離、景色、交通量、その道で出会ったものなどの情報を基に、複数のルートを選べるようになる。途中何の用事もなくても、店と自分のいる位置を思い浮かべ「その時の気分で」ルートを選択できるようになる。何が言いたいのかというと「自分で選べるルートが複数あるということ」と「気分でルートを選べること」が私にとって重要であるということだ。知識や経験を蓄えることと共に、何となく、気分で、直感で、流されるように、自分で選択できることが大事なのである。その選択に他者に説明できるような合理的な理由がなくてもいいし、その内容にもさほどこだわりはない。
上記の例えでいうとスーパーは個人の死であり、ルートは選択の結果辿る個人の歴史である。生死を繰り返すことはできないのであまりよい例ではないが、死ぬまでのルートが複数(無数に)あると知っていること、選択を自分ができる自由が担保されていることに、固執するのが私の個性であるように思う。無知故に「ルートはひとつしかない」と思い込んだり、選択基準を固定観念に委ねて「これを選ぶのが正解」と高をくくるのは愚かだと思うし、「どうせ死ぬんだから」と虚無的に選択を放棄するのは幼稚だと思う(何か問題を抱えている場合は別だ)。いつも何が起こるかわからないということと、偶然の出会いの影響を受けていることを自覚しながら、選択を迫られる度に困惑していたい。私の場合そうでないと退屈で死んでしまうのである。
「楽しく生きる」の「楽しく」は人によって違う。自分で決めた目的に向かって行動するのが楽しい人もいるだろうが、私は選ぶ内容自体にはあまり興味がない。だから私が設定し得る目的は「選択の自由がある状態の維持」である。自分が好きなことをしつつも健康でありたいと望むこともそうだし、人為的な理不尽には徹底的に反対である。必要最低限しか稼ぎたくないというのもそうだ。自分で自分が楽しいと思える状態を維持する為のルートを選びたい。
この選択する時に考慮される「自分」には「この肉体という制限付の自分」だけでなく「自分事として感じられる他者」も含まれてくる。知識や想像により「自分」の対象は広がり得るからである。人権を蹂躙されている人の為とか、人に殺されている他の動物の為とか、未来の人が生きる社会や地球環境の為とか、最初は全く思ってなくても、自分事になると選択に影響してくる。
だが他者は絶対的に他者であり、自分ではない。幾ら強く感情移入したところで「私が想像する他者になったつもりの自分」でしかなく、それは対象の主観とは必ず異なっている。だから勝手に「自分と同じような他者」を想定したり、期待してはいけないのだ。特に私などは早合点を繰り返して生きているので、まともに他者の話を聞けてないだろうから、猶更思い込んではいけないと自戒している。「自分は絶対に間違っている」と思っているくらいで、ちょうどよいのである。