無意味な現象が好きだ。何の役にも立たないと思えるのに存在している物、前後の脈略なく耳に入った一言、意図を超え出来上がった風景が好きだ。この好きは、ずり這いをしていた頃に親から与えられた、空の魚型の刺身醤油入れが二つ輪ゴムで結わえられたのを、飽きず眺め触っていたことから来るのかもしれない。また社会的にも生物的にも、人の意図や思惑に始終働きかけられるのにうんざりしてしまった時、自然の景色に癒された経験から来るのかもしれない。だが理由はわからなくてよい。自分の認識や想像を超えた現象に出会うと、私は嬉しくて笑ってしまう。事件や芸術家を知ることでも、自分事に引き付けて考えたり、既にある倫理観や常識からの感想を持つ前に、まず喜ぶ。想定内のものはつまらないと思うことはあれ、嬉しくなることはない。大概のことはわかった気になっている自分を否定してくれる現象との出会いは、喜びである。動揺の後に自分の再構築が行われるからだ。再構築されたら改めて不完全で欠落のある自分の輪郭をなぞり、まだ未知への期待が持てることに安心する。安心とは今後も自分が消滅する方向ではなく変わっていけると思えることである。変わらず安定している状態には逆に不安を覚える(物理的に自分が立っている場所などは例外だ)。生存を脅かす否定的な出会いだけでなく肯定的な出会いももちろん喜びだが、想定外の現象に反応する心の初動に違いはない。出会い方としては論理的にも納得している場合も、よくわからないが直感的に惹かれている場合もあるが、気になるなら素直に自分に取り入れていくとよい。納得は後から付いてくるからだ。
自分の再構築といっても、知識などを総点検するわけではない。動いた感情や、感情を動かした現象についての知識を見識に加えてから、俯瞰で自分を眺めるだけである。そこには矛盾も生じているので、その矛盾を自分がどう引き受けているのか観察しているのである。話は変わるが、社会に出てから記憶力がとても弱くなった。試験勉強で蓄えた知識も、試される機会がなくなると参照されないものへのリンクが切れ、バラバラに無意識に埋もれている。やはり感動や興味と共に得た情報でないと、自分の中にあった関連する情報と枝で繋がることがなく、系統立ても行われないので自分の中には根付かない。だから正確には社会に出るまでの知識へのリンクが殆ど切れてしまっていると言った方がよい。時間軸に沿って知識を並べることにあまり力を使えなかった私にとって、過去の経験はほぼ同じ場所に無秩序に並んでいる。生きる時間が延びるほどに同じ場所が膨らんでいく。ともあれ試験で試されなくても保っておける知識は、自分事と感じられるものと、感動を伴うものだけなのである。そういう意味でも、偶然の中でも想定外の出会いは格別だ。自分の外側にある現象と、現在の自分の間にあるスペースを埋めていくことで、思考がより遠くまで行けるようになる。ただそうして作り上げてきた自分について、正しいと信じたくなることもあるが間違いである。正しさ即間違いである。譲歩するなら正しいと言うには「自分にとっては」という括弧付けが必要で、他者には他者の「自分にとっての正しさ」がある。最大公約数的な共有できる正しさを確認し合うことはできるかもしれないが、条件が変わると正しさの内容も変わってくる。そういう意味で絶対的に信じられるのは自然/偶然だけであり、人がすることに関しても無目的に為された/結果そうなってしまったことだけが信じられる。常に自我はあやふやで認識は間違いだらけだが、それでも自分の現実は自分の感覚でしか掴めない。ある程度は信用しつつも自分を常に疑っていることで、自然がもたらす変容も受け入れやすくなるのだと思う。
昨年亡くなった舞踏家の友人の遺品として、ルドルフ・シュタイナーの本を何冊かもらってきた。シュタイナーはオーストリアの神秘思想家、教育家だ。ずっと開くことなく本棚に眠っていたのだが、最近SNSでフォローしている方がシュタイナーに関する発言をしているのを目にして手に取った。まずはシュタイナー哲学入門、高橋巌氏の解説を読んでいるのだが、初っ端から想定外の出会いがあった。神秘学と哲学の違いについて、神秘学の定義に触れられているのだが、ロヴェール・パヴァーヌ『オカルティズム』を引き「いっさいの事柄がただ一つの全体に属しており、それらが相互に時間的でも空間的でもない関連、目的論的な関連をもっているような立場が基礎になっているいっさいの教義」とあることを紹介している。目的論的な関連!なるほど、目的を設定(信仰)し得ない私のような者には縁遠いが、情報を目的で繋げているのか、などと思った。だがその他の定義を紹介された後、高橋氏がこう述べているのを読んで、また唸ってしまった。「私たちがこれから考察しようとする神秘学の場合には、非常にはっきりした一つの問題意識が前提になっているのです。それは、世界並びに人間の問題をその存在の根底までつき進んで把握しようとする要求がある場合には、認識の限界はどこにも存在しない、という立場なのです。」私は言語化することが趣味なのだが、それは自分の認識の限界を表面化する行為だったのではないかと慌てた。私がやっていることは(少なくとも自分には)喜びをくれるような現象を、自分の稚拙な言語化で貶めてきたのではないか。
言語化することで未知への期待を失うこともあるかもしれないが、私の場合は言語化の対象は日常的な事柄が主なので大丈夫かとは思う(冷や冷やだが)。だがその目的として、他者とは違った自分の考えを表出することに意義があるかもと書いたこともあるが、それは後付けの言い訳に過ぎない。ただ気になったからメモをしていたのであり、説明する言葉が集まったから書いただけで目的はない。そこには自分が気になった、または吐き出したいという情動が込められていたり、ただ調子に乗って言葉を連ねただけだったりしている。そこで解説にまた目を戻すと、時間の帰結や空間の論理ではなく、何らかの目的で現象を繋げてみせるのは、やはり独善的な創作であり、それは自然ではないのではと思ってしまう。だが一方で、奇跡は日常的に目にしているものだということに思い至る。自分が生きていること自体も奇跡だ。何故生まれてきたのかには理由はないが、生まれてきて今こうしていられることは不思議だ。自分の体に今どれくらい癌細胞があるのか、あとどれ位生きられるのかはわからない(自覚症状もないし診断もされていないが細胞のコピーミスは必ず残っている筈)。無目的と思える偶然との出会いに感動すること自体が、何らかの目的に沿っているとは言えないか。また自分の色々な限界や不足を意識することで逆に安心しているところもあったが、言語化不可能に思える途方もないもの、限りないものに向かって、梯子をかける言葉を見つけたいと、正直思っているのではないか。その鍵が無目的性であり、それは社会的にも生物的にも無目的であり、ただ何となくすることや、気付けばそこにあったものである。このブログの一番初めの文章にも「自分の文章がわかりにくい理由」として「目的が無い」ことを挙げているが、改めて考えるとやはりそれでいいのだと思えてしまうのは、無目的で書き進んだ先に言語化され得ないと思っていた現象に手が届く可能性を信じているからではないか。もはやそれは目的と言えるのではないか。と思ったのである。きっとこの本を読んで得た知識も読んだ端から忘れていくのだろうと思うが、限界や目的についての記述は外側に向けて自分の形を延ばすものとして、内面化されていくだろうと思うとドキドキする。亡くなった友人はアル中だったこともあり、真面目な話をしたことは一度もない。こういう話をしてみたかったと思うが、それは出会いのタイミングであり望むべきものではないだろう。