鈴木穣さんの記事を読んで
自分も移動図書館のことを思い出した。
タイトル、鈴木穣さんみたいにうまいこと思いつかなくて、考えてたら時間かかりそうだったので、そのまんま、移動図書館。
小学生の頃、実家の近くの団地の公園の横に、月に1度、移動図書館が来ていた。
ミニバスくらいの大きさで、ボディの外側、両側はフェラーリみたいに羽のように開く。横側は本棚。
バスの中も本棚があり、あまり明るくない車内は、両側本棚に挟まれた通路となっている。
ミニバスの中に、ぎっしりと、折り畳み式の本棚や、机やテーブルも押し込まれていて、移動図書館の場所に着いたら、本棚やテーブルが、ミニバスの近くに広げられる。
移動図書館のミニバスが来る日はいつだか書いてある看板が、公園の横に立っていたが、日付、二行あった。
雨天中止の場合の、次の開催日も書いてあったのかな。
移動図書館が来る日は、小学校も午前中授業の日で、給食を食べたら下校。
家に帰ったら、移動図書館に行った。ちょうど間に合う時間だったから。
行くと、たいてい先に母が来ていて、本を選んでいた。
移動図書館の中にある本は、何があったか覚えていない。
狭いし探しにくいのに、なんとなく、中に入る。
移動図書館の車の片側には、ハーレクインロマンスやら、早川ミステリが並んでいた。
母はよくその辺にいた。
移動図書館の車の外に出された棚に、比較的新しい本が多くて、実用本もまだピカピカ新しかった。
地元の図書館の本は大体古かったし、移動図書館の方が新刊が多いように見えた。
自分で借りたのは、見てわかりやすい、実用本や、誰かが返した本がある棚にあった、子供用の物語本が多かった。
しかし自分が一番読んだのは、自分で借りた本よりも、母が借りてきた本だった。
母は移動図書館だけでなく、移動しない地元の図書館からも借りてきていたのだが、大きなトートバッグに、自転車の籠がいっぱいになるほどの本を借りてきていた。
家族みんなの貸し出しカードで目いっぱい借りていたから。
家の居間の片隅に、その袋は置いてあって、自分は、そこからがさごそと、自分用らしき本を見つけて取り出す。
子供用に母が借りていたのは、子供用の推理小説。アガサ・クリスティーとかその手の。子供用の落語の本や、世界の不思議な話みたいなのもあった。
しかしそういうのは、すぐ、シリーズ全部読み終えてしまう。
学校のクラスにあった本のコーナーで人気だったのは、江戸川乱歩のシリーズで、表紙の絵が気になって、借りたくてもいつも出遅れて借りれなくて、あきらめていた。
自分の家の本を寄付したことはあった。
学研の図鑑の、人体。
(鈴木穣さんの記事にも人体の本の話が出てくるが、子供にとっては怖いけれど気になるものだったのか、大人の一方的な気持ちで選ばれた本だったのか。)
家に、学研の図鑑がたくさんあって、一番要らないのを持って行ったのだった。
学校の図書室ではみんなが読まないような難しい本をわざと借りたりした。
「アルファベット群島」っていう本を借りてみたら、話がわけわからなくて全然面白くなくて、最後まで読まずに返した。どこかの知らない島の話。
今読んだらどういう感じなんだろうな。
移動図書館で母が借りてきてくれていた本が、突然、表紙が面白くないものに変わった。
シンプルなしろっぽい表紙で、「ライ麦畑でつかまえて」
とても面白かったが、それを読んだら、それまで読んでいた本の世界から切り離された。
中学生になって、移動図書館の来る時間に、団地の公園に行けなくなった。
仕方ないので、地元の図書館へ行くようになり、今度は中学生レベルくらいの推理小説を片っ端から読んで、大人向けのも少し読んだあたりで、推理小説には満足しすぎてしまい、その後、推理小説もサスペンスも読めなくなってしまった。
小難しい文学作品読んだり、気取った小説読んだりするようになり、移動図書館は自分に関係のないものになったが、その後しばらくして、移動図書館自体、来なくなった。
なんで来なくなったのだろう。