いったん時系列を追うのに戻ってみる。天平10年(738)5月に弥勒禅院と薬師勝恩寺が統合されて神宮弥勒寺が成立した。ここで単一の神宮寺ともいえる存在が成立したことは、のちの八幡神の本地仏論争にもつながってきそうだ。そしてついに同12年(740)に藤原広嗣の乱が勃発する。藤原広嗣とは、藤原式家宇合の嫡男で、天平10年に大養徳(やまと)守と大宰少弐を歴任、藤原四兄弟亡き後を支える重要人物と目されていたといってよい。一般的には大宰少弐が左遷だとし、それを不満に思って挙兵したとされるが、特にそのタイミングが新羅無礼の記事の直後であることも考えると、むしろ半島情勢に対応した重要任務として赴任したと考える方が自然だろう。私はここで、広嗣の弟とされる田麻呂という人物に注目したい。田麻呂という名は、これから出てくる宇佐神宮の主神と同名であり、しかもその大神田麻呂が宇佐で活躍している間、藤原田麻呂は全く表舞台に出ていない。ここから推測されるのは、田麻呂が広嗣の名を騙って都に上奏文を送り、広嗣を挙兵せざるを得ないような状況に追い込み、それを除いて自分が宇佐を中心に大神田麻呂として勢力を広げたのではないか、ということだ。結果的には、都から討伐軍が送られ、十月壬戊大将軍大野東人をして八幡神に祈請 (続日本紀)、封戸20と神宝および造寺度僧を八幡宮に奉る(東大寺要録・託宣集)ということで、八幡神の力を借りて乱を討伐するということになり、さらには乱の後に大宰府はいったん廃止となり、九州に中央権力が及ばない、という異常事態が発生することになった。そしてこの乱の平定に八幡神が力を発揮したということで、八幡神の託宣というのが大きな比重をもって中央の意思決定に影響するようになったと思われる。
そして、これこそが二度目の神幸にかかわる部分であると思われる。名前からの推測はなかなか難しく、その点は検討課題であるが、とにかく、仲哀天皇を八幡神とする立場から言えば、その薨去地である香椎宮、神功皇后ゆかりの篠崎八幡神社、そして宇佐神宮という神幸が考えられ、これは託宣に見られる穂浪大分宮、筥崎宮、そして宇佐神宮の遷座に当てはまる。この託宣部分は、何とかして辛嶋氏系の伝承を宇佐の託宣に組み込む必要があり、それに沿って宇佐ではなく筥崎の託宣という形で実現したものではないかと推測される。いずれにしても、九州においても八幡神の鎮座地ということに関しては必ずしも自明な一枚岩ではなかったことを示唆しているといえる。おそらく、広嗣の乱の時点、いやこの後もずっと、都における八幡社の理解というのは筑紫の篠崎八幡神社のことであり、辛嶋氏の伝承というのもこの篠崎八幡にかかわるものではないかと思われる。その篠崎八幡神宮の公式HPでは、天平2年(730)に宇佐八幡宮から分霊を勧請し、篠崎八幡宮とした、となっているが、この年はまさに武智麻呂が大宰帥に任じられた年であり、これは果たして宇佐神宮から分霊を勧請したのか、あるいは宇佐神宮に分霊を勧請したのか、というのは議論が分かれそうだ。というのは、同公式HPで、藤原広嗣の乱において官軍は豊前国板櫃川の東に陣を敷き、大将軍大野東人は篠崎八幡神社にて戦勝を祈願し、見事賊軍をやぶることができた、となっており、続日本紀に言うところの八幡神というのが、この記述に従えば篠崎八幡神社ということになるからだ。その後、なぜ宇佐八幡からの勧請、ということになったかといえば、それはやはり養老律令がかかわり、租の除外対象となる寺社に篠崎八幡が含まれるかどうか、という議論の中で、宇佐八幡の分霊を祀るのならば除外対象に入ることができる、といったような政治的駆け引きがあったのではないかと思われる。そしてそれが中世において全国に八幡信仰が広まった一番の理由といえよう。それは、すでに書いた通り、源氏の氏神としての存在につながることでもある。