江戸幕府成立に至るまでの徳川家康の足どりを辿るのに最も信頼性が高いと考えられている深溝松平家忠によるとされる『家忠日記』。これに何が書いてあるのか、ということを自分の視点で読み解くことから、戦国時代終盤の風景が少しでも見えてきたら、と考えて、覚書を付けながら読んでみることにした。かなり妄想を走らせることにもなるかも知れないが、よろしければおつきあいのほどを。
底本は『増補 續史料大成』第十九巻(竹内理蔵編 臨川書店 昭和五十六年五月二十五日初版)
まずは解題から。
この日記は、徳川家康に仕えた松平主殿助日記であり、家忠廿三歳の天正五年(一五七七)十月十七日より文禄三年(一五九四)十月に至る約十八年間の記事を有する。原本は肥前島原藩主松平家に伝えられた。
まず、天正五年(一五七七)十月十七日という日であるが、このちょうど1週間前10月10日に大和信貴山城が陥落し、松永久秀が自害したとされている。始まり方の半端さから考えて、それ以前からも書かれていた物が、その事件をきっかけに残せないこととなってそれ以前を破棄した可能性は十分に考え得るのだろう。
一方で終わりの方は文禄三年(一五九四)十月となっているが、7月位から急激に飛び飛びとなり、最後は日付不詳のような形で終わっている。この時期は秀次事件と時期が重なっており、その解釈が整理しきれなくなって終わった可能性が高そう。
松平家忠は、弘治元年(一五五五)深溝松平氏の伊忠を父とし、鵜殿三郎長持の娘を母として三河深溝に生まれた。深溝松平氏は、家忠の曽祖父忠定の代に深溝に住した小領主で、家忠の時、徳川氏の家臣団構成において三河国衆と呼ばれるものの一員であった。家忠は天正三年(一五七五)父伊忠と共に鳶巣山の戦に参陣してより家康に従い、武田氏との戦・小牧の戦・北条氏との戦等数多くの合戦に参加し、天正十八年(一五九〇)家康の関東移封にともない、武蔵国忍城に入り、埼玉郡の内一万石を領した。その後文禄元年(一五九二)下総国上代に移り、更に同三年更に転じて下総国香取郡小美川城主となり下総国香取、上総国長柄・武射・山辺・望陀五郡及び同国吉倉・平川両郡を領した。慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の戦が起るや、家忠は伏見城西丸の守将として小早川秀秋の率いる西軍と戦い戦死した。年四十六歳。
母方の祖父である鵜殿長持は、今川義元の娘婿とされるが、Wikipediaによれば、『寛永諸家系図伝』にはそうした記述はなく、『寛政重修諸家譜』ができるまでの間に創作されたとする指摘があるという。鵜殿氏は大名にはならず、旗本や鳥取藩の家老などが目立つところであり、その創作を後押しする大名がいたとしたら、鳥取藩池田氏か、それによって今川と血がつながることになる深溝松平氏である可能性がある。鳥取藩池田氏は、家康と鵜殿長持の娘である西郡局との間に生まれた督姫と池田輝政との間に生まれた子である忠雄の流れを汲む系統であり、その意味で家忠は側室・正室の違いはあるとは言え家康と婭で、鳥取藩池田氏と深溝松平氏は鵜殿長持を通じて親類関係にあることになる。
そんな鵜殿氏は遠州鷲津の法華宗陣門流の東海本山である常霊山本興寺の大旦越であり、三代に亘って縁者を本興寺歴代に送り込んでいる。また、本興寺十一世日栄は松平伊忠の娘とされ、家忠の姉妹に当たることになりそう。十一世は鵜殿氏の縁者である日稔とふたりで分け合っていると言うことで何らかの事情がありそうだが、今のところはわからない(本興寺誌参照)。なお、深溝松平氏の菩提寺は島原と深溝にある一字違いの本光寺である。
とにかくこのように法華宗とのつながりが深そうな深溝松平氏だが、家忠が最後に領した内の上総国山辺郡には東金城という城があり、七里法華と呼ばれる法華宗を奉じた領主の上総酒井氏の本拠だったとされる。七里法華というものの実態がどの程度確かなのかわからないが、そこに深溝松平が関わっていた可能性はあるのではないだろうか。
本日記は、松平家忠個人の私的日記で、家の記録・職掌にもとづく記録というように何らかの目的を持って記されたという性格を有するものではなく、家忠個人の生活を日歴として記したものである。連歌師等との交際の記事より考えても、家忠の許には各地の多くの興味あるニュースがもたらされたと思われるが、意図的と考えられるほどこのような伝聞関係のものを記さず、またいかなる重大事件にあってもそれに関する家忠個人の主観的判断を一切記さず、自己の経験のみを極めて簡略に示すという態度が終始一貫して貫かれている。それ故、本日記に描かれる歴史的世界は極めて限られた世界にとどまらざるを得ないが、反面かかる性格の故に、記された記事自体は極めて信憑性の高いものといえよう。
何の意味もない私的日記を18年も書き続けるというのは考えにくく、そこには何らかの意図があると考えるべきであろう。この『家忠日記』の重要性は、同一人物の筆によって18年間継続的に記録がとられた、ということに尽きるわけであり、後に出てくる家康の表記が変わることも含め、そこには必ず作者の立場や意図を示すものが出てくるはずである。結局この家忠からつながるとされる深溝松平は最終的には島原6万5千石の大名となりながら、幕府の役職には何一つ就かないという非常に不可思議な譜代大名となる。このあたりの謎を解く鍵も、この『家忠日記』の中に隠されているとみて良いだろう。
これらのことを意識しながら『家忠日記』を読み進めていきたい。