さて、ようやくコーチャンの『ロッキード売り込み作戦』が手元に来たので、ここで、コーチャンの思惑に戻ってみたい。とは言っても、ロッキード社自体の置かれた立場が、国際情勢やアメリカの安全保障環境も絡んで複雑怪奇なことになっていたので、そこが非常にわかりにくく、そしてそれをここで書くと混乱するばかりなので、国際的な側面についてはなるべく捨象して、日本国内に関わる、そしてコーチャンの個人的な側面に関わる部分で、なるべく筋が通るようにその思惑を考えてみたい。
まず、コーチャンは、1967年に社長となり、ロッキードのアメリカ、カナダ、英国向け以外の市場を担当していたようだ。元々が会計事務所で働いていた公認会計士であり、戦時中にロッキードの子会社ベガで働くようになり、そしてアメリカのジョージアに工場を建てたとされる。ジョージアの工場では主として軍用機を生産しており、そこから出世の糸口をつかむことになった。さて、これはロッキードの事情となってしまうが、コーチャン社長就任時期のことに簡単に触れると、ベトナム戦争の撤退気運が高まるにつれ、軍需が停滞し、その人員を民生部門に振替える為にトライスターの計画が始まった、まさにその年に彼は社長になっている。経営の立て直しを見込まれての社長就任であるとは言えるが、しかし、彼のバックグラウンドは軍用機部門であり、民間機生産への切り替えに向いている人間とは言いがたかった。ではなぜその彼が選ばれたのか、と言うことになると、また少し深入りしすぎるのでここでは多くは触れないが、会長のホートン氏も同じようにベガからロッキードに移り、ジョージア工場で働いていた人物であったことが大きく関わっている。そして、ベガはボーイング、ダグラスと共に、戦時中にB-17を生産しており、ロッキードの子会社というよりも、その時期にはボーイングとのつながりが深くなっていたということがあった。
それはともかく、コーチャンがロッキードの社長になったのは、トライスターの開発開始と連動しているわけだが、後発の同じくワイドボディ機であるマクドネル・ダグラスのDC-10が、民間機開発にはノウハウがあるということもあり、開発自体で先行し、契約も圧倒的に有利に展開していた。実は、DC-10とトライスターのどちらが先だったのか、というのも疑いがあるのだが、それもまた深入りしすぎるので触れないとして、とにかくトライスターはDC-10つぶしのために導入された疑いがある。それがおそらくロールス・ロイスのエンジン開発における不可解さにもつながってゆくのだと思われ、これは現状においては推測に過ぎないが、おそらくロールス・ロイスに先にエンジンを発注していたのはマクドネルの方だったのではないだろうか。そこにロッキードが入ってきて、しかもトライスターの開発を公表したことで、ロールス・ロイスはその契約に縛られ、ロッキードにあわせた仕様にせざるを得なくなり、結果としてマクドネルは、DC-10にGEのエンジンを積んで早くリリースせざるを得なくなったのではないか。GEのエンジンは航続距離にも燃費にも問題があり、そして運用開始直後には事故が頻発し、これまで築き上げてきたDCシリーズの信用を大きく傷つけた。一方、先行したワイドボディの先駆けであるボーイング747はP&Wのエンジンを積んでいたが、カタログ通りの航続距離が出ないとして問題となっていた。要するに、大型機用のジェットエンジンというのはまだ実用レベルにはなかったのにもかかわらず、トライスターがそこに割り込むことで、無理な競争が生じ、その歪みがロッキード経由でロールス・ロイスに波及し、海を挟んで両社が政府支援を受けるようになり、ようやく大型機用エンジン開発が軌道に乗ったという事なのだと言える。それを仕掛けたのがホートン/コーチャン路線であると言えるのだろう。
政府保証を受けることで資金にも十分な余裕ができたロッキードが売り込みをかけたのが日本であったと言えるが、そんなトライスターの日本市場での話を見てみる。信用できるような情報は見つけられなかったので、公開情報やWikipediaからの推測となるが、コーチャンのロッキード売り込み作戦に書かれているような市場認識とは違い、当時は基本的に日航がダグラス、全日空がボーイングを主要機材として使っていたということがあったのだと思われる。特に、日航とダグラスとの関係は昭和26年の開業前にDC-3をフィリピン航空から借りてデモ飛行し、その後DC-4Bが主力として運航されて以降、4世代に亘って国内、国際線の両方で主力機材となっていた。だから、日航がDC-10を導入するというのは自然な流れであり、そもそもがトライスターがDC-10と同じ土俵の上で戦っていたと考えること自体が過大評価なのだと言える。
ただ、流れとして、航空需要の拡大に伴い、大型機への関心が高まっていたということがあり、そうでありながら、通路が1本しかないナローボディの大型機は、乗降に時間がかかるということで、ワイドボディ機への需要は確かにあった。しかし、当時はまだ航続距離に不安があり、国際線において太平洋を渡らなければならない日本の飛行機会社にとって、ワイドボディ機はもう少し時間をかけて見極めても良いものであった。その点で、大庭社長が在任当時に、その段階で入れるのであれば、国内線向けにDC-10で機材に馴らしておいて、エンジンが長距離運航に堪えるようになった段階で国際線に切り替えるというあり方は非常に合理的であったと言える。もとより全日空は国際線はチャーター機だけだったので、無理して国際線用の大型機導入の必要もなかったとは言える。
一方でロッキード側からすれば、軍用機生産から民間機に参入するために作られたトライスターは、当時200席以上の機材を持っていなかった全日空に無理して売り込む位しかほとんど需要の見込めない産物であったとも言える。
もう一つ考えておくべきことは、必要な滑走路の長さという点で、これも雨が降ったら長い距離が必要になるといった条件による違いもあるので一概には言えないが、座席数の少ないトライスターは短い滑走路でも飛ばすことができたかも知れず、その意味で長い滑走路の少なかった国内線においては、ワイドボディのために少ない乗降時間である程度の大規模輸送ができるトライスターは選択肢ではあったと言える。つまり、これは、成田を中心とした、新規開港の空港の滑走路をどうするのか、という問題にも絡んでいたのだと言え、それがこの問題を政治的に複雑にしたのだろう。土建政治家の田中は、当然新機材導入を理由にして空港設備の拡充で公共事業を、という事をもくろんでいただろうから、そこに対してロッキードから献金が行く、というのはそれはそれで筋の通ることかも知れない。
少し長くなったので、とりあえずここで一旦切りとする。
参考文献
「ロッキード売り込み作戦」 A.C.コーチャン 朝日新聞社
「航空機疑獄の全容-田中角栄を裁く」 日本共産党中央委員会出版局
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