『家忠日記』を一通り見たところで、その著者について考えてみたい。ずっと見てきてわかるように、この著者は、武家と言うよりも、連歌を道具に使って口先で話を作り出し、それによって戦国の世の解釈を定めた連歌師、あるいは僧のような存在ではないかと思われ、そしてそれがある程度有力な公家のゴーストライターのような立場で『家忠日記』を記述し、そしてその公家が道筋が整ったところで深溝松平に売り払った、と言うことではないか、と考えられる。
ではまず、『家忠日記』のスポンサーでその話を政治的に浸透させたと考えられる公家について考えてみたい。まず注目したいのが、有職故実を極めたとされる三条西実枝という公家で、息子が幼かったため、その一子相伝の古今伝授を残すために、細川幽斎に一代限りで秘伝の相伝をしたとされ、幽斎はそれを実枝の孫に当たる実条に相伝して三条西家に戻している。その細川幽斎の弟子として中院通勝という人物がおり、天正七年に正三位権中納言となるが、翌年に正親町天皇の勅勘を得て、丹後舞鶴に配流されて、この年に丹後宮津城主になったばかり細川幽斎を頼っている。これを見ると、細川幽斎と中院通勝は実は同一人物である可能性もありそう。そして通勝は、母方の伯父が三条西実枝にあたり、細川幽斎の養女を妻に迎えたとされる。このあたり、明智光秀も絡んでかなり人物の入り繰りがなされていそう。それは『家忠日記』で用いられている手法を見れば、十分に想像できる。いずれにしても、この人物が身分を伏せて『家忠日記』を支援するとともに、それに基づいて京都周辺の政治環境を整えていたのではないかと考えられる。通勝はその後『家忠日記』の書かれていた時期の間ずっと消息不明で、それが途切れた後の慶長四年に京に戻ったとされる。このあたりの関係性も深掘りすればいろいろ出てきそうだが、今はそこまでは手が回らない。
一方で、ゴーストライターの方であるが、千利休の後妻の連れ子に千少庵という人物がいるが、それが利休の死後に蒲生氏郷に預けられ、文禄三年に徳川家康と蒲生氏郷のとりなしで赦されて京に戻り、千家(京千家)を興した、とされる。そして、少庵が利休の養子となったのは、『家忠日記』が書き始められる前年の天正四年であり、そこから利休の情報ネットワークを使って少庵が書きはじめたのではないか。そして、特に北条征伐の辺りでそれがおかしいと言うことが表に出始め、天正十九年二月に殿様上洛で、廿八日に『家忠日記』では何も触れられていないが、利休が切腹し、晦日に殿様御仕合一段能候由候、と言う記述があり、そしてその後『家忠日記』の著者は知行確保に狂奔する、と言うことになっていくように見える。そしていわゆる秀次切腹で一段落し、『家忠日記』もそこで切りとなった、と言うことになるのでは。翌年に少庵は都に戻り、千家を興すことになる。
連歌師として駿遠国境の島田出身で戦国期に東海地方を中心に活躍したとされる宗長がおり、その師匠である宗祇を含め、宗から始まる名を持つ連歌の流派があった。千利休は宗易という法名で、堺の魚屋出身とされるが、実際には宗易の方が宗長の流れを汲む駿河、遠州辺り出身の連歌師で、その後妻の連れ子で養子である少庵の方が田中氏出身なのではないかとも考えられる。だから、『家忠日記』にも田中という地名が出てきて、今でも藤枝に田中城趾というものがあるというぐあいに、そのあたりに田中との関わりが見られるのではないか。このあたりは、戦国時代全体の記述背景を探るために鍵となる部分となるので、更に探求する必要がありそう。
それでは、家忠、という名はどこから来たのであろうか。これは、平安時代の末まで遡る必要がある。公家の花山院家の家祖に藤原家忠という人物がいる。この人物の妻が関白藤原頼通四男の藤原定綱の娘とされ、そこから生まれた忠宗が藤原北家魚名流藤原家保の娘を、そしてその息子である忠雅が家保の息子である家成の娘を妻に迎えている。つまり、家成とは二代に亘る姻戚関係にあったことになる。家成は平重盛の舅であった。そして、家成の屋敷が保元の乱を前に摂関家の頼長に壊されたとされるが、どうもこの破却は、忠雅によるものではないかと疑われる。母方の伯父である家成を頼長との対立関係に見せて、頼長と鳥羽上皇との関係を悪化させ、保元の乱につなげ、自らは清盛に近づいて出世の道を開いたようなのだ。そこから花山院流ができ、その流れを汲む青山氏は、徳川家康の基の少なくとも一部となるような経歴で、のちに江戸に広大な土地を確保したとされ、それが今の青山と言う地名の由来となっているとされる。また、青山家初代とされる師重の従兄弟に長親という人物が出ており、それは松平清康の祖父に当たり、松平家中興の祖である松平長親と同じ名前になる。ここからも、青山氏の話が松平氏の話の下敷になっていることが感じられる。
一方、家成の方からは四条家、そして山科家が出ている、ただし、山科家は家成の子の実教が養子を取ったところから始まっており、さらにその後庶家から言国が養子に入り、その孫の言継やその子言経の日記が戦国時代の歴史に大きな影響を及ぼしている。例えば織田家の存在は『言継卿記』に大きく依存している。その記述のおかしさをフォローするように『家忠日記』で本能寺の変について信長の存在を否定するような記述があることで、『家忠日記』が存在感を打ち立てたといえる。つまり、家保、家成というのは、保元の乱から始まる戦乱の時代のきっかけについての鍵を握る存在であり、それが狙い撃ちにされて記憶が混乱し、そこにつけ込んで『家忠日記』が東国に大きなくさびを打ち込んだのだといえそう。それ以前には西国の勢力は越前、美濃、尾張のラインから東にはほとんど入ることができなかったのではないだろうか。このあたりの話、奥は非常に深くなるが、とりあえずはここまでにしておきたい。