コーチャンの回顧録についてさっと見たが、明白な事実関係を追うだけでも、この内容が事実ではなく、かなり意図的な歪曲が入っていることが明らかになった。つまり、事実の裏付けとしてこの文献を使うということは全く適さない、裏をとっていない自白のようなものだと言える。では、この文献の成立過程を追うことで、これがどういった性質を持ち、何を意図して書かれた物なのか、という事を追ってみたい。
この「ロッキード売り込み作戦」の巻尾の『コーチャン回想』の生まれるまで、と訳者あとがきによれば、朝日新聞ワシントン駐在の村上吉男記者が「対コーチャンアプローチ」をはじめ、ロッキード事件が明るみに出た1976年2月からはコーチャンと電話で話す仲になっていたという。
村上記者は昭和11年生まれで、慶応大学経済学部卒業後1960(昭和35)年にアメリカフレッチャースクールにジョゼフ・C・グルー奨学生として留学、1964(昭和39)年法学博士、アメリカタフツ大学講師を経て昭和40年に慶応大学講師、翌41年朝日新聞入社、1968,70年にアメリカ特派、1973-75年にバンコク特派員を経てアメリカ特派員となったと言う。
狭き門のグルー奨学金でフレッチャースクールという国際関係論の一流大学に留学し、名門タフツ大学の講師になりながら、帰国し母校慶応大学講師、そして朝日新聞というのは、キャリアとしては少し尻すぼみのようにも感じる。なぜ慶応に戻ったか、というので気になるのが、当時自民党の総裁選の度に名の挙がった藤山愛一郎だ。名門藤山コンツェルンの御曹司の彼は、権力闘争にはとことん不向きの人物だったようで、岸内閣での通産大臣の打診には、財界には知り合いが多くて仕事に差し障るとの理由で断り、代わりに外務大臣となったが、その時に勤めていた会社の要職を全てやめ、外資系企業の持ち株も売り払ったという。入閣前にはフィリピンとの賠償交渉の全権となり、合意の締結にも立ち会ったが、その後1960年の日比友好通商航海条約がフィリピン側で批准されないまま賠償問題が立ち往生しているという状態だった。詳しくは立ち入らないが、その賠償問題に関して藤山は非常に大きな心の負担を抱えたのではないかと感じる。だから、全財産を投げ出してでも、戦後を終わらせなければならない、という気持ちを強く持っていたのではないか。それを利用するかのように、昭和39年、そして41年の総裁選に、佐藤栄作の対立候補として藤山の名前が挙がった。当時の自民党総裁選は、立候補などの仕組がなく、ただ国会議員の中のこれぞと思う人に投票するという仕組であった。その仕組の下で、39年の総裁選はかなりの実弾か飛び交ったといわれる金権選挙となり、それでなぜか藤山に多くの票が集まったことで、佐藤との票が割れ、池田の再選が決まった。オリンピックが終了した後には、黒い霧と呼ばれるスキャンダルの噂が多数出て、佐藤が総裁選で勝ったばかりなのに黒い霧解散で国民に信を問う、といったことがおきており、そこでも藤山が対抗馬だった。そのように政界が乱れている最中の40年に村上は慶応大学講師として帰国し、翌年、まさに黒い霧解散の年に朝日新聞入社となっている。なお藤山は、慶応の普通部から慶応大学政治科に進んだが、大正7年に病気で中途退学している。このあたり、もっと調べる必要があるのだが、大正7年といえば、後に藤山が社長を務めた大日本製糖とも関わり、その後も因縁がありそうな鈴木商店が、米騒動に関する朝日新聞の誤報によって焼き討ちに遭った年である。そんなことも関わってか、村上は慶応に1年だけ籍を置いて朝日新聞に入り、藤山コンツェルンの金の流れに関わっていくという選択をしたのではないか。なお、村上はフレッチャースクールでは、ニクソン外交を取り仕切ったキッシンジャーのアシスタントを務めたフレッド・バーグステンと少し重なっていたようだ。
アメリカ特派となった1968年は大統領選挙の年で、ニクソンは一応ベトナム戦争の終結を掲げて当選した。70年には、その公約に反するような、南ベトナム軍との共同でのカンボジア侵攻があり、それに対してケント州立大学事件が起き、学生に犠牲者が出た。それらの、どちらもアジア情勢に深く関わる事件に関してのアメリカ特派であろう。アジア外交というのは、先に述べたフィリピンをはじめとして、藤山が特に力を入れていたことである。73年からのバンコク特派は、タイの革命に関わるものであろうと考えられ、しかしながら、それに区切りがつくのはクーデターが起こった76年になってからである。にもかかわらず中途半端な75年からアメリカ特派員となっていると言うことは、タイの政変よりも重大なことがあったから、という事であり、朝日新聞が絡んでの重大事件となると、捜査の進展から見るさまざまな思惑1で書いたように、75年8月にプロキシマイヤー委員会でロッキードの名前が出たことであろうと考えられ、これに関しては朝日が夕刊で記事にするなど主体的に動かしているように見える事からも、おそらく委員会でロッキードの名前が出るよりも少し前にはすでに計画が動き出していたのではないかと考えられる。どの段階で、というのは、アメリカの政治情勢をもっとしっかり見ないとわからないので、今はここまでの仮説で止めておく。いずれにしても、朝日が仕掛けたのであったら、ターゲットとなったコーチャンにもかなり早い段階で接触しているはずで、遅くとも75年の内には、そしておそらくはプロキシマイヤー委員会で名前が出る前の75年夏前には既に接触があったと考えるべきではないだろうか。それが村上のアメリカ異動と関わっていると考えられる。
そう考えると、コーチャンのチャーチ委員会での証言には既にある程度朝日のシナリオが織り込まれていたと考えるべきで、証言の時点でどこかの段階で朝日から回顧録を出し、事件の幕引きを図る、というシナリオはできていたのであろう。つまり、この回顧録が落としどころになるというのは、証言前から既に決まっており、そのシナリオの上でコーチャン証言がなされたのだ、ということが言えそうだ。『コーチャン回想』の新聞掲載の後のコーチャンの他者特派員に対する釈明の「将来インタビューに応ずる時が来るとすれば、相手はミスター・ムラカミ以外ありえない、ということは早くからきまっていた。」というのは、その背景を考えれば当然至極の発言であると言えよう。それならば、暗闇の中にかすかな光が見えてきたのが3月下旬(昭和46年)、急速に光が大きくなったのが7月末「田中逮捕」の直後だった、という、当時の朝日新聞アメリカ総局長松山幸雄の言葉が嘘、というか、少なくとも出来レースについての誇張表現であることがわかる。その後一月もせずに8月21日には早くも朝日新聞の記事として「コーチャン回想」が載り、11月10日には本となって出版された。いくら書くのが仕事とはいえ、疑惑の中心人物へのインタビューを含めて3ヶ月で書き起こし、弁護士のチェック、そして訳も行い、記事化、出版というのは尋常ではないスピードだ。そして録音テープもないという事で、それが本当にコーチャンとのインタビューに基づいているのか、ということについては何の証拠もない。前回の第二の陰謀のところで明らかにしたように、本当にコーチャンがあのように無能な扱いに対して弁護士を通してすら文句をいわなかったとなると、実はコーチャンは目を通してすらいない可能性もある。もはやコーチャンもこの世にはいないので、その真相は明らかにはならないが、少なくとも読む側としては、これが全て朝日新聞、村上記者の作り話であるという可能性も十分に考慮に入れながら読む必要があるのだろう。そしてそれは、藤山の遺産を狙い撃ちにしたと思われる村上の行動も考え合わせると、その村上を採用した朝日新聞の後のアジア圏に関する報道のベースになっているのだと考えても良いのではないか。
参考文献
「ロッキード売り込み作戦」 A.C.コーチャン 朝日新聞社
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