さて、ここで、宇佐八幡の創建に深くかかわったと考えられる法蓮という僧についてみてみたい。彼は二度にわたって続日本紀に登場している。一度目は大宝3年(703)9月25日条で、法蓮の「毉」術を褒めて豊前国に野40町を施す、というもの。野とは未開墾の土地でそれを40町も施すのはほかに例を見ない。毉とは、イと読むが巫覡がお祈りして病気を治すことであり、医術とは区別して使われている。二度目は、養老5年(721)6月3日条で、元正天皇の詔として、沙門法蓮は心が禅定の域に達し、その行いは仏法にかなっている。また毉術に精通しており民の苦しみを救っている。よって彼の3等の親族に宇佐君のかばねを与える、というもの。これは、隼人征伐の翌年であり、そのかかわりが想定される。法蓮については地元に多くの伝承が残っているようで、建保元年(1214)に書かれたという「彦山流記」では、法蓮の活躍が述べられているといい、それを要約すると次のようになる。「甲寅年、彦山権現が衆生を利せんがためにマガダ国より如意宝珠をもって日本国に渡り、当山般若窟に納められる。それから160年後、法蓮がこれを得ようと修業を積む間に、白髪の翁が時々奉仕、法蓮は宝珠を与えることを約束。その後法蓮は宝珠を得る。法蓮が彦山上宮と宇佐の八幡宮に詣で、八面山の坂中でかの翁と会う。翁は宝珠を乞うが法蓮はそれを渡さず、ついにはそれを取られる。怒った法蓮が火界呪を唱え、火を翁の前に投じ、火は四方の山を激しく焼く。戻ってきた翁は、自分が八幡神だと明かし、寺を作って法蓮をその別当にするといい、八幡神は宝珠を得て宇佐宮宝殿に自ら治め、ここに八幡神と法蓮は同心の契りを結んだとする。」というものだ。さらに流記ではこの後に二つの付記があり、ひとつは、養老の隼人征伐後に、法蓮は高原岳で日想観を修し、紫雲が立ち上り、太宰府まで覆ったので、太宰府はこれを奇瑞として奏上したというもので、もう一つは、上毛郡山本に虚空蔵菩薩を安置し、法蓮のことを「弥勒の化身なり」と述べる、というもの。これらを総合すると、彼は弥勒信仰の僧侶であり、どういういきさつかはわからないが、とにかく豊前地方の開拓を行ってそこで勢力を養い、隼人征伐に協力してその褒美として宇佐という姓を得たのでは、といえそうだ。それが後の弥勒寺、そして宇佐神宮の財政基盤となっていったと考えられる。この前例のない開拓事業が、班田収授に風穴を開ける三世一身法の先駆けとなったと考えることもできそう。実際、養老律令では寺田・神田は対象外とされ、これが寺社に寄進することによって祖を免れるという荘園制度の最初の事例であるといえる。その意味で、八幡信仰とは荘園制と切っても切れない関係にあるといえる。それこそが、武家の信仰の対象としての八幡信仰の意味するところであろう。なお、服部英雄氏は、「彦山流記」について、従来研究が古い時代の事実を反映していると考えたのに対して、彦山が大宰府との対立の中で中央に直結している宇佐宮と結びつくため、北部九州における11世紀から12世紀の時代背景の中で成立したのだと指摘する。そして、後藤宗俊氏は、法蓮は中央で認められた渡来系の僧であるとし、その証拠として、虚空蔵寺は法隆寺式の伽藍配置という豊前地方の他寺院に見られない特徴をもち、それが畿内との密接な関係を示しているとする。その上で、弥勒寺に虚空蔵寺や宝鏡寺の関係者がかかわったことは、瓦などから示唆されるが、建立縁起にはそれは触れられておらず、さらには神亀2年に日足地区に建立されたという弥勒禅院の存在を示す遺構や遺物は今日まで確認されていないと指摘する(八幡大神)。この事実は、弥勒寺の創建時期、あるいは法蓮が本当に宇佐地方の僧だったのかということについてのさらなる検討を求め、さらには八幡神の特徴である神仏習合の始まりについても再検討を促すものになりそうだ。その中で、東三河との関わりにも注目したいが、今ここで書いても飛躍しすぎるのでまた後ほどにしたい。