では、承和縁起の伝承についてみてみる。大神氏系の伝承は簡潔で、大神氏しか出てこず、そして八幡大神が馬城嶺に直接降臨したことになっているという特徴があり、一方辛嶋氏系は、内容が詳細で具体的であり、辛嶋氏しか出てこず、そして神幸を行っているところに特徴があるといえる。ここで一番の大きな違いは、神幸の有無であると思われるので、そのことについて検討してみたい。神幸は二度にわたり、一度目は大御神が欽明天皇朝に宇佐郡辛国宇豆高島に天下り、その後大和国膽吹(イブキ)嶺-紀伊国名草海嶋-吉備宮神島-豊前国宇佐郡馬城嶺と巡るもので、二度目は比志方荒城潮辺-現泉社の地-現瀬社の地-現鷹居社の地と巡っている。一度目の神幸は、宇佐から大和、紀伊、吉備、豊前と巡っており、しかも、大和の膽吹嶺について逵氏はそれが宇陀郡の伊福郷ではないかと推定している。これに先ほどの辛嶋氏の祝、つまり諏訪とのかかわりを加味してみると、実は最初の神幸は東国から九州に移動したものではないか、という推定が成り立つ。ここで考えてみたいのが、葛城の一言主と張り合い、吉備を平定したと伝わる雄略天皇のことだ。雄略天皇は倭の五王の武に比定され、東国、西国、そして海を渡って領土を広げたと伝わっている。また八幡宮と深いつながりを持ち多くの場所で相殿されている人物に武内宿禰がおり、これは武の名を共有していることからも時期の下った雄略と深いつながりが考えられる。さらに言えば、少しさかのぼって神功皇后はその武内宿禰もかかわる三韓討伐へ往復ともに紀伊国の湊を使っており、その伝承がこの神幸につながっているとすれば、大和から紀伊を抜けて西国へ向かうというルートと八幡神のつながりの現実味は増す。時期的な検討は必要だが、彼らが東国から宇陀を経由して大和に入り、葛城をにらみながら紀伊に抜けて吉備を討ち、さらに九州まで平定に向かったということは考えられないか。つまり、辛嶋氏の伝承における第一の神幸とは神功皇后、武内宿禰そして雄略天皇のある程度長期間にわたった征西であった可能性があるのだ。逵氏も、この伝承について、大御神が応神霊であるとは一切述べておらず、その代わりに大神氏ゆかりの地に神幸させて応神霊を付与させたように装ったのでは、と推測しているが、私は、そもそももともとの大御神は応神天皇ではなく雄略天皇あるいは武内宿禰だったのでは、と推測したい。一方第二の神幸であるが、これはより狭い地域のことで、これだけではなかなか分かりにくいが、おそらく大分宮から筥崎宮、そして宇佐神宮に遷座したという筥崎の託宣とかかわっているのではないかと思われる。これについての仮説はまた後程提示したい。