一方で、T-33をライセンス生産していた川崎航空機工業の方も少し見てみたい。川崎航空機工業は、神戸の川崎重工業から戦前に分かれた会社であるが、主力工場は岐阜県の各務原にあった。そこには現在も現存飛行場では国内最古の航空自衛隊の専用飛行場があり、第二補給処が常駐している。つまり、各務原につながる名鉄の各務原線、そして犬山線というのは、T33の生産アクセスの提供という点で非常に重要であった、ということがある。そして、各務原線の前身である各務原鉄道は、昭和10年に名岐鉄道に合併されたことになっているが、それは、公式には本線に木曽川橋梁がかかった年であり、本線の接続と各務原鉄道経由での名古屋岐阜間の接続を同時に行うというのは、資金が豊富だったとは考えにくい当時の名鉄、名前が何だったかもよくわからないので、とりあえず名鉄で通すことにするが、それがそのような二重投資を行うことができるとはどうにも思えない。やはり、これも、どちらも西暦と昭和を意図的に入り交じらせているのではないかと考えられる。つまり、昭和35年に木曽川橋梁が架かり、そして各務原線も名鉄のものになったのではないかと考えられるのだ。その背景には、その2年前、33年に各務原基地から米軍が撤退し、航空自衛隊のために滑走路も延ばされた、ということがあった。つまり、航空自衛隊の移動需要に応じるための取得でありながら、しかもそれはまさにグラマン白紙撤回の年であり、つまり小牧に航空自衛隊を持ってくるために、各務原に実戰部隊が置かれたら困る、という河野金昇的な事情があり、せっかく伸ばした自衛隊専用の滑走路を補給部隊に使わせるだけという、何とも無駄なことをさせるのに、政治的に名鉄が各務原線を取得した、という可能性が高い。滑走路をわざわざ延伸した歴史ある各務原飛行場を差し置いて、既に航空自衛隊の基地がある浜松にさらに近い小牧に空自の部隊を持ってくるなどという、安全保障を私利私欲のために利用するような政治がはびこっていたのだ。
そしてそれが、各務原に工場を持つ川崎外し、という事にもつながってゆく。実は、川崎と三菱の間には、戦前から、こちらは海軍であるが、発注を巡るいざこざがあった。詳しく書くと話がずれてしまうので、ここでは書かないが、とにかく三菱は川崎の技術がほしくてたまらない、というのがずっとあったようなのだ。そんなこともあって、最初のノックダウン生産でも、練習機を川崎が、そして実戦戦闘機のF86を三菱が、という形で、出来るだけ最先端技術を三菱が取得したいという思惑が入っていたようで、三菱優先というのは、戦前からの伝統のようなものだったのだ。それを追ってゆくと、また興味深いことになるが、それもここでは触れない。
とにかく、川崎が各務原に工場を持っていたのは間違いないが、一方三菱がどこに工場を持っていたのか、というのは決して明らかではない。戦後できた中日本重工業は、何と本社を神戸に構えており、その時点で三菱の生産拠点がいかに西日本に偏っていたかが理解できる。そしてそれは川崎の本社がある神戸に近づけることで、別会社となっていた川崎航空機工業の動きに制約を加えたのではないかと考えられる。そして、三菱が中部圏で生産拠点を持っていなかったように見える以上、戦闘機の受注を受けても、それを作るような機材があったとは思えない。春日井に陸軍工廠があったのでは、というのは述べたが、実は、そこまでは鉄道が延びておらず、鉄道の引き込み線のない工廠というのはちょっと考えにくいのではないかと思われ、だから実際には春日井の陸軍工廠の話も後からのでっち上げなのではないかと考えられる。
そうすると、三菱はいったいどこから機材を持ってきたのか、という事であるが、一つには豊川にあった海軍工廠から、というのがある。ここは武器を作っていたという話はあるが、飛行機の話は余り聞かないのでどうかとは思うが、金属加工的な機械は多くそろっていたことだろう。豊川では、この、東洋随一ともされた工場を一括で何らかの工場誘致に使いたいとずっと活動していたのだが、結局それは叶わず、そのどさくさで機械がどこか他に持ち去られたとなったら大問題だろう。これについては昭和27年に賠償指定が解除され、最初は一括で工場誘致を行い、戦時中に日本兵器産業と呼ばれていたとされる日平産業という会社が誘致されたが、武器生産を目的としたその会社は、朝鮮戦争が終わると当然のごとく倒産し、誘致計画は白紙となってしまった。おそらく豊川海軍工廠が機銃など兵器の生産をしていた、という話は、この誘致に絡んで固定された話であろう。東洋随一の工場が機銃しか作っていなかったなどという話はあり得ないわけで、当然飛行機の生産もされていたと考えるべきなのだろう。愛知県では愛知時計製造から分かれた愛知航空機という会社が熱田周辺で飛行機生産をしていたようだが、その敷地は各務原や豊川には遠く及ばないものであった。そしてこれは艦上爆撃機の生産を主としており、三菱が4割を生産していたとされるゼロ戦などの艦上戦闘機については記録がないようだ。だから、戦闘機の生産はこの豊川工場でなされていたと考えるべきなのではないか。敷地もかなり広大で、滑走路があったと考えても不思議ではない。豊川は、結局一括での転用が出来なかったことから、昭和30年に分割転用の陳情を自ら国に提出し、そしてそれは鳩山内閣によって認められた。しかし、買い手の方はもとより土地よりもその設備をほしがっていたわけであり、この分割転用によって、結果として設備だけの持ち出しが出来るようになって、それによって全て持ち出されてしまった可能性があるのではないかと考えられる。昭和31年12月に自衛隊弾薬庫の移転先が決まり、翌32年1月26日に国有財産の分割払い下げが認められた。自治体が頭を下げてお願いするべきことではないのだが、何はともあれ石橋内閣となって払い下げは進み始めた。そして土地はどんどん買いたたかれることとなった。本来ならば、飛行場とセットで豊川において飛行機製造がなされるのが一番合理的であったのにもかかわらず、そんなばら売りの影で、どうも設備が三菱によって持ち出されてしまったのではないかと疑われるのだ。一方でより規模の小さかっただろう愛知航空機の方は日産系の自動車部品工場として生まれ変わっている。なお、隣接する豊橋の南の方には、海軍の1500m滑走路を3本も持った大崎飛行場、そして陸軍の1800m滑走路を持った大清水飛行場があり、更に渥美線という鉄道路線もそれぞれそばを通っており、航空機生産をするには非常に条件が整っていたのにもかかわらず、結局それが活用されることはなかった。特に、大崎飛行場は、豊川海軍工廠とほぼ同時に着工されており、豊川で戦闘機をつくり、大崎を主要拠点にする、というのが海軍の戦略であったのではないかと考えられる。ここは、昭和30年までは髙豊村で、それから豊橋市に合併されたが、当時の豊橋市長は大野佐長という岐阜県笠松出身の警察官僚であった。笠松というのは、一宮の対岸にある名鉄本線上にある場所で、一宮出身の名鉄土川と結託していた可能性はないとも言えない。一宮、笠松の名鉄本線岐阜方面派としては、小牧を愛知県の中心的空港とするためには、大崎や大清水は非常に邪魔な存在だったと言える。なお、大野佐長が前市長の辞職に伴い立候補した選挙の直前には、後藤田正晴が警察庁官房会計課長となっている。その選挙では保守系がぎりぎりまで市長候補を決められず、結局豊橋警察署長であった大野佐長が急に浮上して立候補することになっている。そんなことを含め、この軍用地の払い下げは大きな問題を残すことになるが、それはまた別のところで戻ってこられたらしたいと思う。
そしてもう一つは、特に飛行機がらみ、エンジンなどの生産器具については川崎の各務原工場から持ち出したのではないか、ということも考えられる。実際、零戦は三菱重工が作ったとされるが、その試作1号機は各務原飛行場から飛んでいるということで、各務原の工場で作っていた可能性がある。だから、その機械の一部は三菱に所有権があるのだ、として持ち出した、という事は十分に考えられる。あるいは、中島航空機は各地に工場を持っていたようなので、そこから集めた可能性もある。戦前、戦中の航空機生産の中心であった中島航空機からは結局飛行機を作る後継の会社は直接は現われなかったからだ。
このように、名古屋での飛行機生産は、元々飛行機を作っていただろう別のところから機材などを集めて、それを最終的には三菱の大江工場に集約した事に依って整えられたことになりそう。そしてそれは伊勢湾台風をきっかけに、その復興財源であちこち金まみれにして、それによって成し遂げられたように感じられる。
参考文献
「新編豊川市史 第4巻」 新編豊川市史編纂委員会 豊川市
「豊橋市政八十年史」 豊橋市政八十年史編さん委員会 豊橋市
空港探索・2