宇佐八幡が放生会を欲しがった理由として、大宰府の存在があるのではないかと考えられる。既に述べた通り、宇佐八幡の成立には大伴旅人による隼人征伐が大きく関係している。これは、大宰府から大隅守陽侯史麻呂が殺害されたとの知らせが届き、大伴旅人が大将軍として派遣されたというものだが、果たして隼人の地、大隅、大宰府というのは現在言われているそれらの場所と同じなのだろうか?
いろいろ問題はあるが、大胆な仮説を提示してみたい。中国の古代官制を記した周礼によると、大宰とは百官の長であるという。これはもちろん九州を最前線と考えてそこに副官をおいたのだ、という考え方もできるが、神武東征以来、平安期に至るまでの東への推進力を考えると、むしろ東が前線であったという考え方もできる。つまり、隼人の反乱とは九州ではなく東国であったという可能性だ。
隼人のhayaという言葉は、グアムのチャモロ族の言葉で「南」を意味するとされ、そこから隼人とは南方人のことだと考えられている [1]。ただ、南方人だから南九州というのは実に限られた見方であり、実際には、既に述べた安曇族の分布に見られるように、南方渡来伝説はより広い範囲でとらえるべきだろう。その中で、隼人の初見とされるのは日本書紀の天武紀での朝貢の記事とされ、そこには大隅と阿多の隼人が相撲を取ったという話が出ている。大隅はのちの大隅の国とされる現在の鹿児島県東部が定説だが、隅という字はまたクマとも読めることに注目したい。そして阿多というのも九州の地名だというのが有力だが、実は天竜川の支流に阿多古川という川があり、その上流域に熊という地名が存在している。阿多古と同じ読みの愛宕信仰は火の神をまつる信仰で、その中心とされる京都の愛宕神社は、大宝年間(701~704)に修験道の祖とされる役行者と白山の開祖として知られる泰澄が朝廷の許しを得て朝日峰(愛宕山)に神廟を建立した [2]とされるが、それ以前の天武期に阿多に関する記事が正史に載っているのだ。そして、古事記の記述によると隼人の祖は海幸彦といわれる火照命だとされ、その名は火が燃え盛るときに産んだ子である所から来ているとされる。また、遠州地方は同じく火にまつわる神である秋葉信仰の中心地でもある。さらには、隼人は隼人舞という踊りで知られるが、三遠山間部には花祭という伝統ある祭が伝わっており、それに関して日本書紀の一書では伊弉冉が火之迦具土神を産んで亡くなった後熊野の有馬に葬られたとし、それに続いて花祭についての記載があることにも注目したい。そして、熊野速玉大社の速玉という言葉は、隼人と非常に近い音であるといえる。
もし隼人の地が熊野から天竜川流域にかけてだとしたら、その連絡を行なった大宰府は東国にあったということになる。では、東国のどこに、ということであるが、ここで大宰府に近い役職として総令を見てみたい。総令は大宝律令まで存在した国よりも広い地域を統括する役職だと考えられているが、その中に周防総令というものがある。この周防というのは、スワという音に通じるところがある。そして注目したいのは、大伴旅人の隼人征伐の最中の養老5年(721年)6月26日に諏方国が信濃国から分立していることだ。つまり、大宰府は諏訪にあり、東国全般を統括していたのが、もしかしたら旅人が都を離れているあいだに中央で一国に格下げされる動きがあり、それに驚いた旅人が急いで都に戻った、という動きがあったのでは、とも想像できる。
もう少し深めてみると、周防国はのちに鋳銭所が設けられ、貨幣の鋳造が為されたとされる。この鋳銭所が最初に設けられたのは周防の隣国長門国である。しかしながら、現在鋳銭所の遺物が出ているのは周防国の方であり、長門国ではそれは確認されていない。この時期に発行された貨幣といえば和銅開珎ということになるが、この和銅開珎の出土が圧倒的に多いのが北陸地方となっている。そこで考えたいのが、実は鋳銭所は北陸にあったのでは、ということだ。そして長門とは奈呉戸、つまり放生津の港であり、それこそが放生会を宇佐八幡がどうしても自分のものにしたかった理由ではないか、と考えられる。
この仮説は、大宰府、そして国の名前が入れ替えられているのでは、という大変大胆な仮説なのでなかなか受け入れ難いとは思うが、その国の名前の入れ替えのメカニズムはまた追って検討したい。
[1] 山中襄太. 続・国語語源辞典. 東京 : 校倉書房, 1976.
[2] 愛宕神社. 【公式】愛宕神社【総本宮_京都】. 【公式】愛宕神社【総本宮_京都】. (オンライン) (引用日: 2018年5月30日.) http://atagojinjya.jp/.