宇佐神宮の方では、恵美押勝の乱を受けて翌天平神護元年(765)3月22日、宇佐神宮に帰座の託宣があり、閏10月8日大尾社に帰座(建立縁起・託宣集)した。同月には、孝謙天皇が重祚し称徳天皇となり、道鏡太政大臣禅師になっている。翌2年(766)10月2日大神杜女と田麻呂が召喚され、田麻呂は豊後国員外掾(続日本紀)となる。有名な宇佐神宮神託事件に向かって動いてゆくわけだが、この辺りは和気清麻呂伝をはじめとした伝記伝承が詳しいので、それらを含めて概略を見てゆきたい。
道鏡の素性については、「本朝皇胤紹運録」に天智天皇の子施基皇子の子供として、道鏡の兄弓削浄人と道鏡禅師の名がある。この道鏡と孝謙上皇との関係は、天平宝宇5年(761)に近江保良宮遷都し、道鏡が病気を患った上皇の看病をしたことから始まる(続日本紀)。この二人の関係については、日本霊異記、古事談、日本紀略などに記述がある。その中では、小手尼が治療をしようとしたところ、藤原百川が「霊弧だ」といって斬り、故に帝が死去、といった孝謙天皇の死因にかかわることを、かなり下世話な内容で記している。
一方、和気清麻呂は、父乎麻呂(おまろ)のもとに天平5年(733)備前国藤野郷に生まれる。その姉の和気広虫は、天平2年(730)生まれで、天平16年(744)14歳で葛城戸主に嫁す。清麻呂は舎人、広虫は采女として朝廷に出仕した。その後広虫は孝謙天皇に信任され、天平宝宇6年(762)孝謙上皇が出家して仏門に入ると、広虫も尼となり、法均と号して、進守大天尼位を授けられる。
ここで注目したいのが、二人の出身地である備前国藤野郷というところ。Wikipediaでは、岡山県通史によるとまず養老5年(721)に藤原郡が置かれ、神亀3年(726)に東野郡(藤野郡)と改称され、延暦7年(788)に磐梨郡と和気郡に分割して消滅するという歴史を持っているとする。不比等が没した翌年に、なんと藤原郡という名前で設置されたとするのが起源だというのだ。まだ三世一身法施行以前で、荘園という概念が存在しない中、そして藤原姓が不比等の子孫のみに許されると決められている中、ここが5年間にわたって藤原郡と呼ばれた意味を考えてみると、この年に4兄弟の中で先んじて中納言に任官した武智麻呂の存在が浮かび上がってくる。つまり、南家とはもともと深い関係にあった可能性は指摘できる。
そのような背景の中で、時系列に沿って事件の展開を見てゆきたい。天平宝宇8年(764)藤原仲麻呂挙兵、村主石楯がこれを討ち、その後淳仁天皇配流される。翌天平神護元年(765)道鏡太政大臣就任。神護景雲2年(768)弓削浄人大宰帥任官。そして翌3年(769)に問題の大宰主神中臣習宜朝臣阿曽麻呂託宣事件が起きる。続日本紀の宝亀3年(772)の記述によると、「詐って八幡神教と称し、道鏡を誑耀す。道鏡、これを信じて、神器を覬覦するの意あり。」という。和気清麻呂傳では、習宜阿曽麻呂、八幡神教と詐って「道鏡をして帝位に即かしめば、天下太平ならむ」(新校群書類従」巻第64和気清麻呂傳697頁)とする。そして、重祚称徳天皇の夢中に八幡大神が現われ、「和気清丸を大神宮に参らせよ。神教を聴せしむ。」(「扶桑略記抄」2106頁)と託宣する。以下和気清麻呂傳によると、天皇が清麻呂を呼んで、法均の代わりとして八幡への使いを命じ、清麻呂が宇佐使となり「必ず皇緒を続けよ。道鏡の怨みを懼れることなかれ。」という託宣を受ける。天皇はこの託宣を聞いて清麻呂を因幡員外の介とし、姓名を別部穢麻呂と改めさせた上で、大隅国に流した。尼法均も還俗させ別部狭虫とし、備後国に流した。
道鏡を帝位につけるつもりだったというのならば、最初から清麻呂を確認のために送る必要はなく、大宰主神の報告だけで十分だったのにもかかわらず、わざわざ送った確認のための託宣に対してなぜ天皇がここまで怒ったかといえば、それは天皇が信じていた篠崎八幡ではなく、宇佐の託宣を八幡の託宣として持ち帰ってきたからではないか、という推測はできそうだ。