前回天正六年十月以降を随分駆け足で見たが、この月は、『家忠日記』の大きな特徴である自筆の挿絵が初めて出てくる事もあり、大きな転機になった月ではないかと思われる。私は、おそらくここで筆者が固定され、本格的に日記となり始めたのではないかと推定しているが、余り先入観を強く持って読むのも間違いそうなので、筆者の推定含めその検討は全部読み終わってからとしたい。そしてここからの内容は、これまで見てきた設定の経緯からわかるように、事実と言うよりも、いかにして筆者が自分の思うとおりの世界を実現するための材料とするのか、という記録であると考えられるので、細かいところを踏むと筆者の思うつぼにはまることになると考え、目立って現在にまで影響していると考えられる点だけをピックアップして読んでゆく事にしたい。
天正六年で一つ追加しておくと、十一月と十二月に牧野鐵放衆という言葉が出てくる。この地方が鉄砲で無視できない力を持っていたことを示すものではないか。そして、家忠の父伊忠が討たれたとされ、家忠自身も参戦したとされる長篠合戦というもの自体本当にあったのかと言うことが疑わしいと私は考えているのだが、その鉄砲隊の話の一番はじめの元ネタとなったのがこの部分なのではないかと考えられる。その戦が本当にあったということにするために、“信頼性の高い”『家忠日記』筆者の父がその戦いで討たれたのだ、という話が重要になっていったのではないか。
では天正七年。
正月五日に東堂様ふる舞候とある。字は違うが、藤堂高虎は元々近江浅井氏に仕えていたとされ、その後三木合戦に参戦しており、また三河吉田では餅を無銭飲食したという話も残っている。もしかしたら、西国方面の情報源は藤堂高虎で、この東堂殿というのはそれを示しているのかも知れない。
二月には、内藤四郎左衛門尉、松平玄蕃、天野清兵衛、本田作左衛門尉、本田平八郎といった面々に振舞をしている。
三月にも、松平甚太郎、牧野新二郎内衆山本輿一郎、牛久保山本小一郎、松平周防守、甚太郎内衆都筑助大夫、稲垣平右衛門尉らに振舞。この月は挿絵が二つある。
四月は頭に挿絵があり、二日から六日まで、そして十七日から廿日まで原本闕失。挿絵が何らかの本人にとっての覚だとしたら、この部分は後から本人が書き直した可能性もある。何があったかは筆者の推定を行わないとわからないので、後から考えることとする。この月は、三光院、崇福寺寺というお寺に振舞、松平權兵尉、大原一平、宗右衛門尉にも振舞、月末には戦があったようだが、馬伏塚、見付、ふくろい、河合市場、大井川、濱松と点でばらばらな地名が出てきて、おそらく事実ではないのではないかと思われる。
五月も月初から四日までと廿日から廿三日まで原本闕失でどちらにも挿絵がある。四日と二十八日に東條都筑助大夫、原本闕失直前の十九日には竹谷備後守殿の名が出てくる。そのまた前日十八日には連歌があったとし、その発句として「ていしゆたい正佐」という名が出ている。なぜか家忠ではなく、この名はその後も出てくるが、誰なのかはわからない。
六月は、月初に松平伊豆、松平孫十郎に振舞。七日と見られる日に濱松殿とある。家康なのだろうか。家康には敬称を付けず、濱松殿には付けるというのが不思議。九日に山崎女房衆と出てくるところを見ると、もしかしたら妻とされる築山御前のことなのかも知れない。山崎というのは、水野藤次とともに何度か出てきた地名である。築山御前の出自もいろいろ受けを広げていたのかも知れない。九日から廿三日まで原本闕失で、その二日後からまた月次の連歌会でここにも竹のや金左衛門尉という名が出て、連歌の発句は正佐となっている。このあたりで竹谷松平と良からぬ企みをした可能性が高い。竹谷松平は江戸時代となってから最初の吉田城主となり、その後に深溝松平が吉田に入ることになる。
七月には川かりと堤つかせというのが何度か出てくる。十五日に大草殿兵法ならい候とあり、後は天気くらい。挿絵あり
八月は、月初から大雨でなからつつみが切れたとしながら、のんきに月次の連歌を行っており、ここでも発句は正佐がていしゅとして詠っている。翌三日家康が岡崎に来て四日に信長が大濱に退くとある。これが信康の間違いとして信康切腹のきっかけとなった事件が何かあったとされる。十日には各国衆信康江内音信申間敷候、御城きしやう文候とある。このあたり動きが非常に慌ただしいので、何かがあったことは間違いないのだろうが、この後信康については一切出てこなくなる。廿七日にはまたも月次の連歌会があり、正佐の名で発句が載せられている。この月は雨が非常に多かったようだ。
九月は一段落したようで、また振舞が多く出てくる。次の仕込みに入っているのだろう。三日に鵜殿善六、四日に松平周防、五日に定番衆、六日に東條衆都筑助大夫、七日に岡田權平、夕食は牛久保殿、八日は小笠原丹波、九日は家中新二郎各定番衆、十日は權兵尉、十一日に松平甚太郎、十四日に定番衆と、ほぼ毎日のように振舞を行っている。この中で、新二郎は牧野新二郎かとも思われるが、家中、となっている。先月の事件で何らかの立場の変更があったのかもしれない。十七日からは何らかの戦があった様子。
十月は、挿絵があり、主として濱松が舞台の様子。八日と九日に氏眞様という名が出てくる。
霜月はちょっとばたばたしているようだが、何のことだかよくわからない。
十二月は、高橋より會下へ越候者ヲ、あしのやにてころし候という物騒な記事から始まる。そして挿絵にもなにやら怪しげなものが書かれている。岡崎からわざわざ検死が来ている事も含め、何らかの事件があったようだ。九日に吉田酒井左衛門尉娘、牧野新二郎所江祝言候ということで、酒井忠次の娘と牧野康成が祝言を挙げたとある。さきに家中新二郎とあったことを含め、何とかして牧野新二郎を傘下に置いたという証拠を残したいという様子が見える。これはあくまでも推測だが、この『家忠日記』全体として、前に書いたように、牧野城普請というのが大きなテーマとなっていることからも、牧野氏をどう押さえ込むのか、ということが一つの目的であったようにも見て取れるようだ。
天正七年はここまでとする。