では、後藤田の人物像に更に迫るために、その前半生から見てみたい。Wikipediaに書かれたネタのような話にいちいち突っ込むのも大人げないのだが、後藤田がどのように自己定義し、それに沿って人格形成してきたかを見るためには必要なことであろう。Wikipediaの年号を和暦に変更して引用しながら検討してみたい。
後藤田は、“大正3年8月9日、徳島県麻植郡東山村(現在の吉野川市美郷)に後藤田増三郎とその妻ひでの四男として生まれる。後藤田家は忌部氏の流れを汲む郷士の末裔とされており、江戸時代には庄屋を務めた家柄で、稼業として藍商とともに尾道で造り酒屋を営んでいた。なお、後藤田は末っ子で、上に8人の兄姉がいたが、成人できたのは後藤田含めて6人であった。”とのこと。
藍商とあるが、徳島藩で藍の生産が盛んだったのは、洪水の被害の大きい吉野川で、台風シーズンの前に収穫できるからだという。だとすると、河口部の平野部分に拠点がなければおかしい。さらに、山の民である忌部氏の流れを汲む家が、内陸の麻植郡で庄屋を務めるというところまでは筋が通るが、尾道で造り酒屋というのは唐突すぎてよくわからない。尾道は商人の力の強い自治都市だったという事で、父系が尾道を拠点とし藍や酒などを取り扱う瀬戸内交易の商人で、母系が徳島の山地出身だったということか。
“父・増三郎は政治好きで、自由党の壮士として酒造業で得た資金を政治活動や地元の教育の普及に使い、徳島県議会議員や麻植郡会議長などを務めた地元の名士であった。”
明治以降徳島の藍は輸入品に押されて衰退気味だったという事で酒造に軸を移したのだろうか。広島藩は浅野氏が藩主ということで、直接つながるわけではないとは言え、浅野財閥の資金が流れたという事を示唆しているのか。なお、浅野財閥の祖、浅野総一郎は越中国出身である。あるいは、尾道は同じ醸造でも尾道酢の法が有名であると言うことで、輸出品として満州や台湾にまで広がったというこの尾道酢から、後に軍隊で配属されたという台湾とのつながりが示唆されているのか。また、尾道の千光寺公園は地元商人三木半左衛門によって作られたという事で、後の三角代理戦争とも言われた、徳島選挙区での三木武夫系議員との争い、そしてそれに引き続く直接対決を示唆するのか。
“しかし、大正11年5月11日に肝臓病で父を亡くす。徳島市内の病院で父の亡骸を引き取って戻ってきた母を峠で迎えた後藤田に、普段は気丈なひでは「とうとうお前を父無し子にしてしまった」と涙を流した。その母も同13年8月26日に他界。翌々年4月に姉・好子の婚家で徳島有数の素封家であった井上家に預けられた。井上家は後藤田を長男格で扱い、長兄の耕平も遺産を処分しながら弟たちの学費を工面してくれたため、不自由なく暮らすことが出来たが、早くに両親を亡くした経験はその後の後藤田の人格形成に大きな影響を与える。”
姉の婚家で歓迎されたということは、養子で入ったと言うことか。このときに徳島と縁ができたということなのではないだろうか。徳島と井上氏といえば、徳島蜂須賀家と福岡黒田家は、蜂須賀正勝の娘糸姫が黒田長政に嫁入りしたが、一女菊子をもうけながら、離縁され保科氏からの娘が入ったため、不通大名となった。その菊子が黒田家の家臣で黒崎城主だったが一国一城のためそれを破却して隠居した井上之房の息子で旗本となった井上庸名の妻となり、そのまた娘が出石藩小出氏から旗本保科氏に養子に行った正英に嫁入りし、その子が旗本小出氏の後を継ぎ、その家にはその後久松松平家からの養子が入っているという、非常にややこしい話となっている。
“東山小学校・富岡中学を経て、昭和5年に旧制水戸高等学校(乙類)に入学。”
徳島から水戸高等学校に入るというのは、非常に唐突感がある。この年は、二階堂進や三木武夫がアメリカ留学した年であり、徳川家が様々な歴史清算に取りかかっていたと考えられる。そして徳島藩には、水戸連枝高松藩藩から養子が入っており、そんなつながりから、いろいろな歴史を持っていた井上氏の養子となっていた後藤田が水戸高校に入学を認められたということになりそうか。入学は1年遅れているような感じなので、やはり金解禁の挫折に伴い、井上準之助が井上日召率いる血盟団に暗殺された血盟団事件と連動していると考えて良いのではないか。そうして、徳川のおかしな歴史を「大日本史」なるものによって糊塗した水戸に留学させることで、いわば、口止めとでも、あるいは洗脳とでも言える処理が施されたのかも知れない。実際それによって、後藤田は東大よりも水戸高校を出たことを誇りにしたとされる。
おそらく井上庸名の娘が保科氏に嫁入りしたという以降の話は、そこで別の話に切り替えられているのでは無いかという気がする。重要なのは、最初の黒田家と蜂須賀家のいきさつなのであろう。共に豊臣秀吉の側近として江戸時代に大大名となった両家のわだかまりの原因というのは重要な記憶であろう。実際水戸支藩から蜂須賀家に入った養子は、黒田家から火伏のまじないを受け継いだ、ともされる。非常に強い念のようなものが、両家の間にはあったと考えられる。一方で、後藤田が本当に井上氏の養子であったかというのも怪しいところで、その年の水戸高校入学者の中で出世頭だったので、後付けでそのような経歴になった可能性がある。ただし、前回書いたとおり内務省の話も怪しいので、この水戸高校の話すらも、水戸高校出世頭の誰かの話を買い取ったか何かしたのかも知れない。その結果として黒田家と蜂須賀家の話の背景が表に出たのだとしたら、それはそれで意味のあったことなのかもしれないが。
“昭和9年に東京帝国大学法学部法律学科に入学(1学期修了後に政治学科へ転科)。「支那にゃ、四億の民が待つ」という当時の日本を覆っていた熱気と第一線で国民と直接接する仕事をやりたい気持ちから、南満州鉄道(満鉄)に入社して中国大陸に渡るか高等文官試験(高文試験)を受けて官吏になることが在学中の後藤田の希望であった。しかし11年の満鉄入社試験では東大卒者と京大卒者それぞれに設けられた入社試験日を取り違えてしまい、頼み込んで一応面接をしてもらったが当然不合格。難関の高文試験も、一度目の受験では失敗した。”
“翌12年10月に高文試験に8番の席次で無事合格し、翌13年3月に東京帝大法学部政治学科を卒業した。”
満鉄入社試験、卒業者に設定された入社試験日と書いてある以上、在学中にはまだ入社資格がなかったという事なのか。少なくとも卒業予定がなければ無理だったのではないか。つまり、少なくとも満鉄の話は事実ではない可能性がある。頼み込んで面接をしてもらった、のあたりは事実かも知れないが、不合格であったことをわざわざ誇るかのように記しているところが、いずれにしても何らかの話を作っているように感じる。下で見るように、台湾に行ったという話が後藤田本人の話ではないとしたら、後藤田は実際には戦時中は満州に行っていたのかも知れない。
“昭和13年4月10日、当時一流の官庁とされていた内務省に入省。なお、内務省入省同期には同郷の海原治(後に防衛官僚の事実上トップに君臨し「海原天皇」と呼ばれる)と平井学(後に建設省官房長)がおり、将来を嘱望されて「徳島三羽ガラス」と呼ばれた。
内務省の振出し配属は、土木局道路課兼港湾課見習いであった。このときの直属の課長は灘尾弘吉で、後藤田の教育役となったのは内務事務官の細田徳寿であった。15年1月31日に細田の招きで富山県警察部労政課長に出向。労務報国会の組織や労働災害の認定などを担当した。“
二つの課の見習いというのはあるのだろうか。帝大卒のエリート教育というのならば、局付けの見習いにする方がわかりやすい。二つの課の見習いというのはむしろ使い走りのような印象を受ける。課員ではなかったので、見習いとしか言えなかったという事では。
警察部労政課長というのもわからない。警察の中の労務なのか。労政という名前、そして労務報告会や労働災害が出てくるということになると、それは13年には内務省から分離していた厚生省の業務になりそうで、内務省とは関係がなさそう。
つまり、後藤田が旧内務省にいたという実質的な経歴は存在しないことになる。
“同年3月に陸軍に徴兵され、4月に台湾歩兵第二連隊に入営。もともと後藤田は短期現役制度がある海軍を志願していたが不合格とされており、陸軍では高等官への例外扱いがないため二等兵から始めることとなった。そのため、初年には一般の兵士同様に「うぐいすの谷渡り」などの新兵いじめを古参兵から受けた。”
“同年4月8日に台湾歩兵第二連隊に配属される。甲種幹部候補生に合格したため陸軍経理学校で補給について学ぶ。経理部将校候補生として陸軍軍曹を経て翌16年10月1日に陸軍主計少尉に任官し、同年12月8日の開戦を迎える。”
“このころ、台湾軍司令部と台湾総督府の連絡将校となり、直属の司令官は本間雅晴であった。18年9月10日には主計中尉に昇進し、高砂義勇隊や台湾特設労務報国隊の編成に携わった。20年3月には東京に滞在しており、東京大空襲を経験している。同月20日に徳島商工会議所会頭吉野勢之助の養女・松子と結婚。(一部重複部分変更)”
甲種幹部候補生は、少尉任官と同時に予備役となるはずなので、少尉任官で開戦を迎えるというのはおかしい。平時に幹部候補生から連絡将校になるというのはあり得ないのではないだろうか。
台湾の部分で気になるのは、出征前の富山勤務の話も絡めて、富山出身である瀬島龍三の経歴と重なっているのではないか、という事だ。瀬島は大戦中ずっと大本営参謀本部作戦課にいたということになっており、6年間もそこに居続けるのは異例だとされる。実際には第14軍に配属となり、そこでフィリピンに渡り、その後蘭印作戦の立案を行ったのではないか。そして高砂義勇隊などを投入したが、結局うまくいかず、サイパン陥落を経て東京に戻ったのではないか。後藤田は、その瀬島の秘密を握った上で警察での出世の道を開いたのではないか。
このように、後藤田の戦前、戦中の話というのは、その後の警察から政治家に至る為の武器となるようなものとするために、様々な話を集めて一つの人格を作り上げたものだと考えられる。深く突っ込む必要のある話ではあるが、ここで余り突っついているとロッキードに戻れなくなるので、とりあえず戦前、戦中の話はここまでにしておく。
参考
Wikipedia 関連ページ