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中国広州の花県(現在の花都区)は、太平天国の指導者洪秀全の故郷である。そのかつての村にこんな話が伝わっている。
1930年代はじめのことである。
ある日、一人の男がひょっこり現れた。男は日本人で、広州の日本領事館に勤務する矢野某だと名乗ると村人にこう告げた。
「自分は日本に逃げのびた洪秀全一族の後裔である」。
もちろん村人は最初誰一人としてそのうさんくさい男の話を信じなかった。
ところが「父の話によると村の塾の前に一対の獅子の石像を埋めておいたそうだ」と男がいうので、ためしに掘ってみたところ驚いたことに実際にみつかった。そのため村人はその日本人を信じるようになったのだという。
この話には続きがある。
5年以上経った1938年のことである。
またもや一人の日本人が村にやってきた。
男は先の矢野とは一字違いの矢崎某と名乗り、「自分は日本軍の将校で、洪秀全の子孫だ」と村人に告げた後、もったいぶってこう布告した。
「先に皇軍の一部隊が洪秀全一族の宗祠を破壊したことに対して陳謝する。今後、皇軍がこの村に立ち入ることを禁止し、一切の労役や食料の提供を免除する」と。
そうして洪姓の長老たちを招いて酒をふるまい、さらに千元の軍票を与えたのだという。
この矢野もしくは矢崎なる日本人は本当に洪秀全の子孫だったのだろうか?
もし本当にそうであったなら面白いが、残念ながらこれはただの芝居だったように思われる。
というのも前者は満州事変直後、後者は支那事変直後であり、偶然というにはタイミングがよすぎるからだ。
すなわちこれらは日本軍による現地住民への宣撫工作の一環だったとみて間違いないだろう。
とはいえ洪秀全自身が日本に落ち延びたというのはありえないにしても、その子孫が日本に渡ってきたというのであれば可能性がまったくないとはいえないだろう。
それを裏付けるものとして、洪秀全の親族の何人かが太平天国滅亡後、香港へ亡命したという歴史的事実がある。
なかでも有名なのが洪春魁である。洪春魁(全福)は洪秀全の親族であり、太平天国末期に瑛王として活躍した人物である。
この洪春魁は香港に逃れた後、数奇な半生を経て秘密結社洪門会の首領となり、さらにその後、孫文らの革命党の支援を得て1903年、広州で武装蜂起を計画したこともあるらしい。
またその際、蜂起の目的として「大明順天国」の建立を掲げるとともに、「南粵興漢大將軍」という時代がかったものものしい称号を名乗ったというからなんとも興味深い話である。
大幹部である親族でさえ逃れられたのだからまだ幼い子供達となればなおさらだろう。
もちろん、長男の洪天貴福が清朝に捕らえられ、処刑されたのは確定した史実である。しかし洪秀全の後宮には2000人の女性がいたというからその血を受け継いだ子供の数は相当数に上ったはずだ。であれば、そのうちの何人かが国外へ脱出したとしてもなんら不思議ではないだろう。
そしてもしそうであれば洪秀全の子孫が今現在、日本に住んでいる可能性もまったくないとはいえないはずだ。
いや、そうであったなら洪秀全のそればかりでなく、翼王石達開や英王陳玉成の子孫もまた今現在、日本のどこかに住んでいる可能性もないとはいえないだろう。さらにいえば、もしかしたらその多くが本人自身さえその出自を知らず、一人の日本人として平々凡々たる暮らしを送っているということも考えられるだろう。