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ぼくたち人間は、同じ物理的な時空間に住んでいるから、たとえば同じ街に住んでいれば「今日は寒かったですね」とか「今日は晴れて暖かくなりましたね」といった会話が成り立つ。
けれども心理的な時空間についてはどうだろう。
物理的には同じ暖かい部屋にいて、二人とも明るい顔で話をしている。それなのに片方の人は暖かい気持ちでいて、もう一方の人は凍えるような気持ちでいるということがないだろうか。
暖かい気持ちでいる人を太陽さん、凍えるような気持ちでいる人を北風さんと呼ぶことにしよう。
太陽さんはいつも暖かい気持ちを持って生きている。もともとそういう素質を持って生まれたのだということもあるし、育ちの上でも恵まれていた。そしていつも暖かい気持ちを持っていられるように心がけてもいる。ところがこの人は残念なことに、凍える気持ちの人の存在に気がつきもしなければ、想像してみようとしたこともない。
北風さんは生まれ自体が心理的に極寒としかいいようのないもので、育ちの上でも恵まれなかった。けれども幸い、心を壊してしまうほどに残酷な運命に翻弄されることはなかったので、いつも凍えた心を抱えながらも、毎日をにこやかに過ごし、しんどいけれども自分なりの人生をきちんと生きている。
そんな二人がたまたま旅先の宿で、暖炉を前に話しているところを想像してみてほしい。
太陽さんと北風さんは決して相性が悪いわけではない。お互いどことなく惹かれ合うものを感じていて、初めは遠慮がちに言葉を掛け合い、やがて快適なテンポで言葉のやり取りが続く。暖炉の暖かさも手伝い、それまで一人ぼっちで旅をしてきて、凍りつき気味だった北風さんの心も、少しばかり暖まって、わずかながらも溶け出してきたところだ。
ところがそのとき、太陽さんが突然ナイフを持ちだしてしまう。太陽さんにとってはナイフは便利な道具でしかない。もつれた意図をすぱっと切り取れば楽しく会話が続くし、一口では食べようのない巨大な話題も細かく切り刻んでしまえば、おいしく食べられる。自慢のナイフを振り回して、懐から出てくる話題を次々に気持よく料理して、太陽さんは大満足だ。
そのとき北風さんはどうしたか。北風さんの生まれた南国の密林には刃物は存在しないのだ。すべての食材は原初的な方法でゆっくりと加工し、時間をかけて味わい、食材に対する敬意とともにそれをいただく。ナイフを使って切り裂き、切り刻むなど想像もできない光景なのだ。太陽さんのせっかくの見事なお手並みも、北風さんにしてみれば、野蛮極まる乱暴狼藉にしか見えない。せっかく緩みかけていた北風さんの心は、血の気も失せて、絶対零度の凍結状態に戻ってしまった。
それなのに北風さんは、その顔に笑顔を浮かべている。青白い顔に凍りついたような笑みが浮かぶのを見て、太陽さんもさすがに何かがおかしいことに気がついた。
太陽さんは穏やかな性格であり、率直な上に心配りも上手な人なので、自分が何か悪いことを言ったに違いないとすぐに気づいて素直に謝った。どういうわけか分からないのですが、自分は時々こうして人を不愉快にさせてしまうことがあるのです。何が悪かったのかさっぱり分からないし、直しようがないもので、ただそうなってしまったときには、こうして謝るしかないのですけれども。
そんなふうに素直に謝る人に初めて出会った北風さんは、自分の胸のうちをすべて話してしまいたい気持ちになった。あなたが振るったナイフが怖くて怖くてたまらなかったのです、けれどもそんな風に感じたのだと今まで話せた試しがなかったのですと。しかし北風さんは思いとどまった。今までの決して短くはない人生の中で、自分の気持ちを人に話して分かってもらえたことなど北風さんにはただの一度もなかった。太陽さんの暖かさを前にしても、北風さんが自分の気持ちを話せなかったのも無理はない。
気になさらないでください。少し過敏なもので……。北風さんはただそう言って、もう一度静かに微笑んだ。
しばらくの間、二人は静かに暖炉の前で座っていた。暖炉にくべられた薪はそのほとんどが熾き火になって、音もなく燃えていた。
沈黙の中で二人の心は遠慮がちに手を伸ばし合い、指先が触れるかどうかのところで、互いの気持ちを確認し合っていた。
太陽さんは立ち上がって言った。それじゃあ、そろそろ寝ることにします。
はい、じゃあ、お休みなさい。北風さんは胸の中に重たい塊を感じながらも落ち着いた声で答えた。その塊は孤独と悲しみの色を帯びていて、それが心の底でゆらゆらと揺れるときの痛みは、なぜか愛おしいものに感じられた。明日の朝は精一杯の笑顔でおはようと言おうと、暖炉の火を見ながら一人北風さんは思った。
[2018.12.30 西インド、プシュカルにて]