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[小説] 深く碧い森にて

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  • としべえ2.0β
  • 2018/11/26 09:18
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[3 - 4分で読めます]

気がつくとぼくは、熱帯地方の深い森に横たわっていました。

時刻はそろそろ夕暮れ時らしく、虫の声が一日の終わりを告げているのが聴こえます。

ここが世界で一番幸せな人たちが住むところなんだな。

そう思ってぼくは立ち上がりました。

当たりを見回すと、一面が緑の世界で、足元は朽ちた木々の葉で覆われています。

ぼくは何者かに導かれるように、自信に満ちた足取りで、森の中を歩き始めました。

天までそびえる木が並び立ち、つる植物や、つたと根が絡まり合う藪の間に、一本の道が続いています。

吸い込む空気には、湿った腐植のにおいが強く感じられました。

顔にまとわりつく蜘蛛の巣を何度も払いながら、倒木を乗り越え、小川や沼を通りすぎて、ぼくは歩き続けました。

聞いたこともない不思議な獣の声が遠くから聞こえてくるのに、ぼくは耳を澄ませます。

もう今までいた世界には戻れないんだ。

どこか物悲しい獣の声の響きを聞きながら、ぼくはそう悟りました。

がさりと音がして、左手の藪から一人の若者が出てきました。

若者はぼくを見ても驚いた様子がありません。股間を簡単に隠した以外は裸でしたが、筋肉質の胸を見せつけるように堂々と立っています。

ぼくよりも少し背が低いくらいなのに、ずいぶん大きく見えます。

若者は長い弓と矢を手に持ち、顔と体には赤い線が描かれています。その線はうねうねとのたくりながら、両の足の横を通って足首まで伸び、かかとにはいくつかの丸い模様が描かれていました。

若者の目がきらきらと輝きました。そして何も言わずに向きを変えて歩き出します。

ためらいなく、ぼくはそのあとを追いました。

若者は歩きづらい森の中を飛ぶような速さで進んでいきます。

不思議なことに、ぼくも何の苦もなくそのあとをついていくことができました。

やがて若者は立ち止まり、こちらを見ました。

川辺の大きな岩の上に登り、あごで向こう岸を示します。

するとたくさんの鮮やかな赤い花をつけた大きな樹の下に、老人がしゃがんでいるのが見えました。

若者が身振りで行けというので、ぼくは水の中に足を踏み入れました。

ぬるい水が足を包み、川の中ほどまでいくと、水は腰の高さまで来ました。

けれども川の流れはゆるく優しく、あっけないほど簡単に川を渡り終えると、ぼくは老人のすぐ前に立っていました。

老人は、何世紀も生きてきたかのような皺くちゃの顔と体を使って、自分の右側に座れとぼくに全身で身振りをします。

並んで座ると、老人は両手でぼくの左手をそっと握りました。

老人の堅い手が、暖かくしっかりとぼくの左手の指先を包んでくれると、ぼくは生まれてから今まで感じたことのない安心感が、その指先から全身に広がっていくのを感じました。

手足から力が抜け、体中が暖かい液体でひたひたと満たされていき、やがて体の境界が消えて、意識だけが無限の宇宙の中に浮かんでいました。

これが永遠というものか。いつまでもこれが続いていくんだな。ただこれに身をまかせればいいんだ。

澄み渡った意識の中、そんなことを思うともなく思っていると、老人が左手をゆっくりと三度引っ張りました。

目を開けて老人の方を見ると、あごで川の向う岸を見るように示されます。川向うでは男が弓を構えていました。

もう一度老人を見ると、若者が弓で狙っている場所を見るように目でうながされます。

若者はこちら岸の左手、二十メートルほど先に狙いを定めていました。そこには人の背丈ほどの灌木が生えている以外は、的になるようなものは見当たりません。

若者は全身に力をみなぎらせて弓をいっぱいに引き絞り、狙いを定めたままの姿勢で、じっと何かを待ち構えていました。

老人があごをゆらゆらと三回ずつ動かしながら、灌木の方を示します。

ゆらゆらゆら、ゆらゆらゆらと、揺れるあごのリズムにつられて灌木の方を見ると、風が吹いているようには思えないのに、灌木から飛び出した一本の枝が、ゆらゆらゆら、ゆらゆらゆらと揺れているのに気がつきました。

催眠術にかかったかのように、枝が揺れるのをじっと見ているうちに、いつの間にか辺りはすっかり暗くなって、その灌木だけが黒い影となり、視界の中に浮き上がって、奇妙な踊りを始めました。

ゆらゆらゆら、ゆらゆらゆら。

ゆらゆらゆら、ゆらゆらゆら。

妖しく踊る灌木から禍々しい気配が立ち上がって、触手を四方八方に伸ばし始めます。

ぼくの体は緊張して、背中に冷や汗が流れ、胃の辺りがむかつきます。

ぼくは思わず老人の手をぎゅっと握りしめました。

細く黒い霧のような触手が、するするとぼくらの方に近づいてくるのが、闇の中なのにくっきりと見えました。

そのとき、右手の方でしゅっと鋭い音がしたかと思うと、灌木がずばっと大きな音を立てて揺れました。

たちまち黒い触手は掻き消えて、辺りは静けさに覆われました。

向こう岸を見ると、若者が森の中へ歩き去っていく姿が見えます。

ぼくはゆっくりと老人の方に向き直りました。

老人は輝く両目で刺すようにぼくを見ると、静かに何度もうなづきます。

悪霊は払われた。

老人がそう言っているのが分かりました。

老人の手を握りしめていたぼくの左手から力が抜けて、手のひらが開いていきます。

老人もぼくも座っているままなのに、老人がゆっくりと遠ざかり始めました。

待ってください。

ぼくはそう叫びたかったのですが、声が出ません。

ぼくの左手はまだ老人に握られたままなのに、老人はどんどん遠ざかっていきます。

おじいさん、待ってください。

なんとか口を開けることはできましたが、口の中はからからで、やはり声が出ません。

おじいさん、お願いです、待ってください。

声を出すことのできないままぼくは、ほんのりと悲しい気持ちとともに、深く碧い森の世界から、いつもの日常の世界に戻り始めていたのです。

  *  *  *

気がつくとぼくは、安宿のベッドの上にいました。

マットレスからぼこんと飛び出したスプリングを右の腰の辺りに感じながら、ぼくはうーんと伸びをします。

まだうっすらとした悲しさが右胸の下の方に残っています。

ぼくは今まで見ていた夢の名残りがないかと、左手の指先の感覚を探りました。

すると老人の手のぬくもりが、薬指の先にまだしっかりと感じられました。

ぼくはほっとして小さく微笑みました。

左手の薬指に残されたこの感覚さえ忘れないでいれば、いつでもあの老人と若者に会いに行くことができ、大切な教えを授けてもらえるのだと、ぼくには分かっていたからです。

[2018.10.11 ラオス、ヴィエンチャンにて]

※ヘッダ画像は https://twitter.com/silvaaudy/status/533099395760537601 の写真を加工して使わせていただいております。

公開日:2018/11/26
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