私は「ドS」「ドM」という表現があまり好きではありません。あまりに軽々しく使われるので、サディズムやマゾヒズムの語源となっている小説家マルキ・ド・サドやレーオポルト・フォン・ザッハー=マゾッホに対して失礼なのではないかという気さえします。
でも、問題はそういう使われ方だけではなくて、語の成り立ち、つまり、後半がアルファベットであるという構造のアンバランスさにもあるのだと思います。
「ど」という接頭語は、大和言葉でも漢語でも構いませんが、ある程度日本語としての歴史を持った単語に接続してこそ安定感があるのだと思います。
「ど真ん中」なら何の違和感もないのですが、「どストライク」などと言われると私なんぞは少しく違和感を覚えてしまうのです。
これが「超」なら座りは悪くないと思います。例えば「超S」「超M」「超ストライク」。
今の「超」は、大和言葉であれ漢語であれ、あるいは西洋からの外来語であっても、かなり融通無碍にくっついて造語を形成してしまう便利な接頭語だと思います。「スーパー」よりも使いやすいのではないでしょうか?
さて、「ど」のつく言葉で我々関西人がまず思い出すのは「ど阿呆」でしょう。
アホよりもアホ度は上で、往々にしてそのアホの愚行に侮蔑をこめて使う用語です。「ど」が付くと、本来のアホという言葉の奥に込められている親しみがかなり消し飛んだ表現になります。
で、これがもっと怒りを込めた汚い言葉になると、音が崩れてダボとなります。「ど」+「頭」が「どあたま」を経て「どたま」になるようなものではないでしょうか?
「ど」とは何かと言えば、強調のための接頭語です。「ど」で韻を踏んで説明するなら「度を超した」の意味でしょう。
さきほどの「超」との関連で言えば、私はかつて「超弩級」は「超ド級」だと思っていました。つまり、「ど」がつくほどの甚だしいもの──これを仮に「ド級」とすると、それを上回る程度のものが「超ド級」だと信じていたのでした。
そうではなく、この「ど」にはこんな難しい漢字があって、しかも、これが戦艦の大きさを表す言葉だと知って非常に驚きました。しかし、上の私の理解の仕方を見れば、「超」の使い勝手の良さが感じられませんか?(ちょっとこじつけかw)
接頭語「ど」は「どいけず」「どしょっぽね(ど性骨)」「ど厚かましい」など関西弁によく見られます。
「ど高い」「ドけち」「ドツボにはまる」なども、これまた関西弁由来なのでしょうか?
多分そもそもは関西で使用頻度の高い表現であったものが、使用方法と使用地域の両方で広がったものではないかというのが私の推論です。
古くからある「ど」言葉としては、「ど根性」「ど迫力」「どえらい」「どぎつい」「どでかい」などがあります。
他にも「どスケベ」(どエッチではしっくり来ない)、「ど派手」(ど地味とは言わない)、「ど田舎」(ど都会とも言わない)など、使い方を考えると興味深いものがあります。
「ど真ん中」や「ど迫力」のような客観的な表現もありますが、ちょっと苛立ちを含んだ表現が多いみたいですね。
そういう意味で似ているのは「クソ」ではないでしょうか。
「クソゲー」のような、文字通り「糞みたいな」という意味の系統のものもありますが、「クソ真面目」のようにあまり糞の面影がないものもありますし、「クソ度胸」「くそ力」みたいな、幾分ポジティブな表現もあります。
ただ、「ど」にしても「クソ」にしても、どこかに「忌々しさ」のニュアンスを少し残しているのが面白いと思います。
また、「ど阿呆」と「クソ馬鹿」を並べると、「ど」は関西系、「クソ」は関東系のようにも見えます。
そう言えば先日始まったばかりの、テレビ東京が社運を賭けて作ったと言われる(と言うか、自らそういう宣伝をしているw)『共演NG』(企画:秋元康、脚本・演出:大根仁)では、昔破局した恋人同士で、25年ぶりに共演することになった大スター遠山英二(中井貴一)と大園瞳(鈴木京香)は、お互いを陰で「クソ女」「ウンコ男」と呼んでいます。
クソ女は手垢のついた表現ですが、ウンコ男はすごいですね。まさにウンコ男、クソ喰らえ、って感じ(笑)
このドラマが大当たりすれば、「ど」に変わって「ウンコ」という接頭語が勢力を増して行くのかもしれません。