
さて、前回では『失敗を恐れて挑戦しないという問題に対して、どう対応したら良いか』ということを考えました。
その抜本的な解決策としては「日本の社会全体が、失敗に対して寛容になる」ことが挙げられますが、ちょっとこれは大変です。
もちろん個人として「失敗に対して寛容になる」ように心掛ける、ということはできますけれども。
もっと個人として容易くできることはないかな?
そのことを考えるため、デカルト先生の名言『困難は分割せよ』を参考に「失敗する前(の段階)」を考えてみました。
それは「失敗を恐れる前に、誤りを恐れている」のでは、ということです。
今は失敗するとリアルな周りの人だけでなく、SNSなどで見ず知らずの他人にも責められることがあります。
その失敗以前に、正解ではない方を選択してしまう「誤り」でも、それが起こっているではないでしょうか。
それで、何かをしようとする時に「誤り」を起こすことを恐れ、常に正解を探し続けて前に進めない(または進むのがやたらに遅い)ということが起きているのではないかと。
まー、このようなことを考えたわけです。
つまりこの段階で「失敗に寛容にならなければならない」が、その前に「誤りに寛容にならなければならない」ということがわかります。
ですがその前に、そもそも「誤りに寛容でなければ、知識や知恵を含めた情報を上手く使いこなすことは難しい」ということをお話しします。
ある学問のとある知識を学ぼうとした時に、それが自分にとって難しいと感じたとします。
その場合はWebを駆使して、できるだけわかりやすく説明している情報を探そうとします。
たとえば身近な物事でたとえてわかりやすくしている記事で学ぼうとしますが、この「身近な物事にたとえ」ることによって、厳密に言えば「正確さを失う」ということが起こります。
もちろん「その人の学習能力」や「そもそも学びたいことが何なのか」ということ、「何をどのようにたとえているか」などによって、正確さの失われる度合いは変わります。
ここでは、例として以下のような数字を挙げてみました。
①正確さは95%だが、自分はその5%しか理解できない
②正確さは75%に落ちるが、その75%は理解できる
③正確さは50%に落ちるが、その100%を理解できる
これを単純に計算すると、以下のような結果になります。
①正確さ95%かつ理解度5% →「4.75%」
②正確さ75%かつ理解度75% →「56.25%」
③正確さは50%かつ理解度100% →「50.00%」
上記の場合では、②が最も理解度が高くなります。
さらに②の周辺を考えてみると以下のようにもなります。
正確さ80%かつ理解度70%と、正確さ70%かつ理解度80%
この場合は、両者とも →「56%」
ここで私の最近の例を挙げさせていただきますと、③番は以下です。
・プラグマティズムの「アブダクション」
プラグマティズムとはアメリカで生まれた比較的新しい哲学であり、アブダクションとは新たに追加された思考法です。
これまでの欧州の哲学ではなく米国発、またこれまでの「帰納法」と「演繹法」という思考法ではない新しいものです。
以前に以下の記事を書きましたが、結局はさっぱりわかりませんでした。
(ですがカーネル・サンダースを落ちにしたのは、さすがにやり過ぎたと反省)
どうしてもわからなかったため、無理矢理「アブダクションを平たく言えば仮説を立てることである」としたわけですが。
これが「③正確さは50%かつ理解度100%」に近い状態ではないかと思います。
上記リンク先の記事でも主張していますが……
わからんよりはましやないかー!!!
……と、いうことで。
それで「誤っているところ」とか、あるいは「どの部分に正確性が欠けているのか」ということがわかった時、その時に修正をすれば良いではないですかと。
まー、そんなことを考えながら、この「アブダクション」を検索しているとですね。
勉強法の大辞典<ベンテン!>様の以下の記事を見つけました。
リンク先の記事に以下の記載がありました。
しかし間違いを失敗と考えて恐れてしまうのはダメです
ななななんと、ここで書いていたことそのまんまやーん!!!
……と、いうわけで……結論です。
要らんこと考えるより、アブダクションを理解しておけばよかった。
時間の無駄以外の何ものでもないやんかー。
ウワァァァァァァヽ(`Д´)ノァァァァァァン!
最後になりましたが、最近の私の失敗は↓こちら。
元はミックスピザだったと思います。
グリルの中で発火し、黒焦げでした。
ピザ、食べたかったな……。
ウワァァァァァァヽ(`Д´)ノァァァァァァン!
誤りを恐れる前に、自分が怖いと思った今日この頃。