以前、テンニースの以下の記事を書いた時にマルティン・ブーバーを知りました。
そこで、以下の記事を見つけました。
株式会社タルイ様の記事です。
テンニースの「ゲゼルシャフト・ゲマインシャフト」が、それぞれブーバーの「我―それ・我―汝」に相当する、ということが書かれていました。
該当するところを引用させて頂きます。
学術的な話になりますが、ドイツの社会学者フェルディナント・テンニースが社会進化論のモデルとして、ゲマインシャフト(共同社会)とゲゼルシャフト(利益社会)を提唱しました。
このゲマインシャフトが「我―汝」、人間本来の自然な本質意志にもとづき、結合を本質とする家族や共同体のような基礎的集団です。
そして、ゲゼルシャフトが「我―それ」、人為的な「選択意志」にもとづき、分離することを本質とする都市などの機能的集団です。
そして企業も本質的には機能的集団(組織)なのです。
引用は以上です。
また、この記事で「ソーシャル・コンボイ」という心理学の用語を知りました。
その「ソーシャル・コンボイ」という用語で調べてみると、以下の記事を見つけたわけですけれども。
UTokyo OCWという、東京大学の講義資料を無償で公開するWebサイト様内の記事です(公衆衛生学、老年学がご専門の村山洋史先生の講義だそうです)。
この記事によりますと、つながりが希薄になることで「心身共に健康を害することがある」とのこと。
しかし一方で「弱いつながりの強み」というものもありまして、つながりが緊密な人よりも「弱いつながりでつながっている人の方が、有益で新規性の高い情報をもたらしてくれる可能性が高い」という考え方もあるそうです。
何故ならば「家族や親友のような普段から近い付き合いの人は考え方が似ている人が多く、得られる情報も似通った情報となる場合が多い」一方で、たまにしか会わない人は「新規性の高い情報など、普段やり取りしている人とは別の情報をもたらしてくれる」からです。
ということで、最も良くないのは「つながりが全然ない」という状態になります。
上記の記事より画像を頂き、ここまでを図にまとめてみました。
盛り込み過ぎて、ちょっとごちゃごちゃしてしまいましたが。
それはさておき、最初の株式会社タルイ様の記事で「とある定年退職した高齢者が、親友だと信じていた仕事仲間に、会社での影響力がなくなった途端に無視されてショックを受けた」という例が挙げられていました。
つまり「親友と思っていたその相手は、仕事だから(という理由)で付き合っていただけだった」という話です。
その人は、営利目的である会社組織=ゲゼルシャフトかつ「我―それ」の関係の人であり、社会的コンボイモデルでは外円に属する人だったということです。
しかしこの高齢者がWeb上でいろいろな活動をしていて、そちらの繋がりが多い人だったらどうでしょうか?
この場合、この人は「弱いつながりの強み」を持つ人である、と言えますよね。
言い換えると、Webだけの比較的弱いつながりであっても、自宅(ゲマインシャフト)でもなく、仕事場(ゲゼルシャフト)でもない「サードプレイス(自ら選ぶ自らが心地良い場所。アメリカの社会学者オルデンバーグ氏が提唱)」を持っていると良い、という話になるかと思います。
で、ここまで主に精神的な健康(と、そこから要介護等になる身体的な健康を損なう可能性との)面でのお話しをさせて頂きましたが。
この問題は健康面だけでなく、金銭を伴うものに発展していくことが予想されます。
なので、そのような面からも注視せねばならないと個人的には思います。
(その辺りの話は以前、以下の記事でも触れたことがありました。
ご興味のある方は、どうぞよろしくお願い致します)
長くなりましたので、今回はこの辺で。
書きたかったことは以上ですけれども。
以下、この記事を書く時に見つけたPDFの資料がちょっと読みにくい状態だったので、改行を追加するなどしてここに転記させて頂こうと思います(元は北海道教育大学付属図書館様のこの記事です)。
マルティン・ブーバーの思想で最も重要な概念は〈われ-なんじ〉と〈われ-それ〉だろう。
人間から世界への認識の仕方はこの二つにわけられる。〈われ-なんじ〉とはいわば未知の他者であり、認識できない存在である。
〈なんじ〉と接すると、〈われ〉は〈なんじ〉を対象化することになる。
それが〈われ-それ〉関係である。しかし、ブーバーは〈なんじ〉を対象化し〈それ〉とすることを「悲しみ」だと表現している。
例えば、素晴らしい小説と出会った時、人は読み終われば「これはこういう小説だ」というように対象化し、様々な解釈の可能性を閉じてしまうだろう。
誰かと出会った時、その人のことについて少しずつわかってくると、「あの人はこういう人だ」という固定観念で見るようになるだろう。
これらは疑いようのない悲しみである。しかし、〈それ〉は再び〈なんじ〉へと帰ることができる。
偏見を捨て、初めて接するかのような態度で〈なんじ〉と出会えば、また新たな感動が生まれるだろう。
いわば〈われ-なんじ〉関係とは、可能性への出会いである。
〈なんじ〉を〈それ〉化してしまうことは人間にとって避けられない。
何かを認識せずに、〈われ〉は語ることはできない。
加えて、〈われ-それ〉関係では、〈われ〉は世界を固定化することになるため、その〈われ〉の認識にとっては、わからないもののない安定した世界となるだろう。しかし、そのような安定は偽りの安定である。
人間が人間らしさを取り戻していくには、〈われ-なんじ〉関係に対し全存在をもって追求する姿勢が必要である。ブーバーの〈われ-なんじ〉・〈われ-それ〉という思想について評価できる点は 2 つある。
1 つは、〈なんじ〉が〈われ〉の認識によって〈それ〉へ変容するという点である。
一般的な考え方では、最初から真理が存在し、人間は真理を理解するための活動を行っていると考えられているだろう。
それとは違い、ブーバーは〈なんじ〉から〈それ〉という順序で世界を捉えている。
つまり、人間が理解することとは〈なんじ〉を対象化したものだということだ。
だからこそ、ブーバーの関心はよりよい〈それ〉と出会うことではなく、自己にとって未知の〈なんじ〉と出会うことに関心を寄せていたと考えることができる。もう 1 つは、〈なんじ〉〈それ〉という個別的な見方ではなく〈われ-なんじ〉〈われ-それ〉という関係性に着目している点である。
〈なんじ〉と出会うことは〈われ〉と出会うことであり、〈それ〉と出会うことは〈われ〉と出会うことである。
これは、〈なんじ〉と〈それ〉のどちらと関係性を構築するかによって〈われ〉の在り方が異なるということでもある。
〈われ-それ〉関係に膠着すると、〈われ〉は何の変化もしない人間となるだろう。教育、あるいは成長という視点から眺めた時、〈われ-なんじ〉関係という未知の他者と出会うことによって、〈われ〉もまた今までとは異なる〈われ〉自身と出会うことになるだろう。
しかし、ブーバーの論には 1 つの疑問が浮かび上がる。
それは、どのようにすれば〈われ-なんじ〉関係を構築することができるか、という問題である。〈われ〉は、〈なんじ〉を意識することでしか、〈なんじ〉と出会うことはできないのだろうか。
おそらく、〈われ-それ〉関係に膠着すると、〈なんじ〉を意識することは困難だろう。
そもそも〈なんじ〉を〈それ〉として固定化してしまう〈われ〉はステレオタイプ的に物事を認識してしまうためである。
〈われ-なんじ〉関係をどのように構築するかは、ブーバーの論を越えて、私たち一人ひとりが自分自身の問題として捉え、補完する必要がある。
そのような意味でも、『我と汝・対話』は多くの人に読んでもらいたい本である。この本を読み、ブーバーの理論に触れた時、自分たちがいかに物事を固定化して認識しているかということに自覚的になれる。
特に教育にたずさわる者としては読んでおいて後悔のない一冊である。何かを学ぶということは、教わるということではない。
未知の他者に対して、もがきながら対話し、未だ知らない自分自身と出会うことである。
以上です。