電子書籍『人文学(とちょっとだけ芸術&NFT)で、これからの生き方を学ぶ』より「番外編3、日本の国を知る「労働者の呪縛とは」」です。
よろしくお願い致します。
先ほど番外編2の最後で「植民地を回避するのも戦後に復興するのもお金は必要であり、それ故に仕事のできる人を非常に大事にしていました」と書きましたが。
この「仕事のできる人を非常に大事」にしたことは、番外編1の日本の国民の特徴「プレイヤー至上主義でありながら組織的」の例として、労働者が真っ先に挙げられることにも繋がります。
我が国は他国よりも遥かに多くの良質で優秀な労働者を抱えており、それ故に国民の持つ民度も相当に高いものであることは確かですが、昨今はそのことが裏目に出る傾向にあることをお話ししました。
何故、裏目に出る傾向にあるのかと言いますと、それは「労働者、またはかつての労働者で定年退職者等(=大多数の国民)の持つ価値観」に起因します。
それがタイトルにも書いた「労働者の呪縛」というものです。
この「労働者の呪縛」の中で私が最も問題だと考えているのは、日本の国民の「価値の尺度」が我々の通貨であるはずの「日本円ではなくなっている」ことです。
それは何なのかと言いますと、何と「自らの労働力」になってしまっているのです。
若い世代になればなるほど、非正規雇用やワーキングプアなどの「お金を稼ぐことが難しい」という問題を抱えています(中には、仕事を失うかまたはいじめ等で学校に行けなくなるなどの理由でひきこもりの状態になって、そのまま仕事に就けなくなる人もいます)。
仕事に就くことや仕事をし続けることが大変で、しかも仕事で稼げるお金は少ない(または次第に少なくなっているか、大変な仕事の割に合わなくなっている)という状況になればどうなりますでしょうか?
稼いだお金は、とても貴重なものになります。
こんなにがんばって、嫌なことがたくさんあっても耐えに耐えて、それでようやく得られたお金ですよ?
愛おしい、あまりに愛おし過ぎる存在です。
そうなりますと、どうなりますでしょうか?
何と……お金が使えなくなってしまうのです。
実は私自身も長い間、この状態に陥って苦しんでいました。
私の場合は投資で儲かったお金もあるわけですが、何故かお金を使う時には自身の労働力によって得られるお金で換算してしまうのです。
そして私の労働力とは非常にお恥ずかしい程度のものであり、具体的な金額を言えば現在の大阪府の最低賃金である時給九百六十四円となるわけです。
「あっ、これ欲しいなー……って、三千円か……嫌な電話対応を三時間以上しなければ……やっぱ、買わんとこ」
(労働者として私のキャリアが最も長いのはコールセンターやヘルプデスクなどのテレオペの仕事でしたが、その中でも抜群に仕事ができない人材でした)
以前から著作やブログ等で「消費の中には自分への投資が含まれており、それは大事なものだ」などと、偉そうに語っていましたが……実のところ、それが長い間どうしてもできなくて、本当に困っていました。
くどいようですが、私の手元にあるお金には投資で得られたものも含まれています。
それでも何故か、労働者として稼ぐ方でのみ換算してしまうのです(多分、私が長年に受けてきた教育の問題ではないかと思います)。
ましてやお金を稼ぐ手段が労働しかない人はどうでしょうか?
実際のお金の金額よりもさらに、お金が貴重なものに思えて使うことができない状態に陥りやすいとは思いませんか?
つまり「労働力を換算した円」が「価値の尺度機能」を果たしており、これが長期のデフレの正体の中でも最も大きなものではないかと思うのです。
……お金が貴重で使えない→物が売れない→物を造る会社の労働者の賃金も低い→その労働者もお金使えない→最初に戻る……
これを繰り返した後、どこかで「日本人全員がお金使えない→日本人のほぼ全員が貧乏になる」という結論になって終わる、それが長期のデフレの正体ではないかという話です。
さて、ここでは日本の国民の「価値の尺度」が「自らの労働力」になってしまったことを最大の問題としていますが、この「労働者の呪縛」は他にもたくさんあり、本来は「労働者の立場でしか物事を捉えられない、極めて狭い視野そのもの」が問題なのです。
それを象徴としている出来事を思い出したので、ここでお話ししましょう。
今から二十五年以上前、平成七年に阪神・淡路大震災がありました。
その時の私は、大学を退学して大阪でフリーターをしていました。
とあるチェーン展開をしている小売店で働いていたのですが、その時に一緒に働いていた同僚が尼崎や西宮など震源地に比較的近いところに住んでいたので、大阪市内に住む私が多めに出勤することになりました。
お昼に入った喫茶店にいくつか新聞が置いてあり、その一つの新聞(名前は失念)の読者投稿欄に次のような意見がありました。
「被災地で折り鶴が迷惑だと言うのはけしからん。折った人の気持ちを考えるべきだ(そんな言い方は、その折り鶴を折った子供たちが気の毒だ)」
何故「折った人の気持ち」を先に考えているのでしょうか?
これこそがまさしく、今回の「労働者の呪縛」による考えではないでしょうか?
(芸能人で絵本作家の西野亮廣氏も阪神淡路大震災の被災者であり、かつて「被災地に折り鶴なんて贈られたらたまらない」と不快感を露わにしていたことがありました)
気持ちを折り鶴にしたら迷惑と言われたならば、迷惑ではない形にすれば良いのではないでしょうか?
というわけで、まずは当初から「折り鶴にしない」という方法があります。
そして、既に折り鶴にしてしまった場合は、その折り鶴を別の形にすれば良いでしょう。
そもそも「子供たち全員に折り鶴を折らせる」というのは、何故でしょうか?
中には、手先が不器用で折り紙が苦手な子もいると思います。
しかしその不器用で折り紙が苦手な子供が、人と話すのは得意だったとしましょう。
その場合、鶴を折る以外の方法で貢献してもらった方が、その子にとっても周りの人にとっても幸せなことだと思いませんか?
例えば、できた折り鶴を持って街頭に立ち、募金活動でその折り鶴を使うとか。
募金を呼び掛けて応じてくれた人に折り鶴をお返しするという方法で、その時に先ほどの「鶴を折るのは苦手だけど、人と話すのは得意」な子が輝きます。
「そこのイケメンのお兄さん、この折り鶴あげるから、もうちょい募金してくれへんかなぁー……鶴だけに、もう一声!」
「にいちゃん、商売上手やなぁー。出世するで!(と言いつつ募金追加ちゃりーん)」
「毎度ありぃ~、イケメンのお兄さん、ありがとさ~ん」
そうやって折り鶴の分だけ金額が上乗せされた状態になると、折り鶴を折ったのは無駄ではないわけですし、お金に変わった状態で送ってもらえることは被災地にとってもありがたいことでしょう(この子の教育にとっても良いと思います)。
ここで「災害時と商売は違う」という人もいるかもしれませんが、それはその通りです。
商売の場合はお金を返せば何とかなりますが、災害の場合はそうではありません。
折り鶴の管理で人手が取られている間に発作を起こし、手遅れになって亡くなったという被災者がいたらどうでしょうか。
この場合は当然ながら、亡くなった人を生き返らせることはできません。
災害時は商売の時よりも特段に、相手の立場で考えることが必要です。