〆切まえにはなんとかかんとか、なんていう小説を読み漁りながらkindleはまるでYoutubeのような電子宇宙だと思うことがある。
いろいろな本を読み漁る習慣は今までになく、とはいっても何かしら面白そうなものを見つけることは得意な気もする今日のこの頃、何から喋ればいいのかわからない。
言葉と友人になることで、より世界は開けるらしい。あと、書いた文章は冗談のものでいい。「知らんがなそんなこと」というスタンスが重要らしい。そう書いてあったのは、「書く習慣」という本である。
いつもいつも何かをやると宣言しておきながらやっていることはひたすらにインターネットばかりだと思ったりするが、そのうちこんな習慣も蒸発するのかもしれない。
文章を書くときに毎回悩む子があるとすれば、いいアイデアを思いついた時に机に向かっていないことだ。いいアイデアであればあるほど寝ているときや書く態勢にないときに思い浮かぶ。
確か、苫米地英人の「百年後の日本人」とかいう著作には将来的に日本という国は消滅し、東京国と北京国が合体するとか書いてあった。成田悠輔の最新作には無意識民主主義とかいうものが良いだろうとか、書いてあった。
意識に任せてただ文章を書いていくことはあまりしてこなかった。
毎日本を読んで紹介するなどというのは一種の拷問に近いのではないかと思ったりする。というのも、別段本は紹介するために存在しているわけではなく、むしろそこから知ることができる情報量が多く、内容を主張されているほうが心地良いからだ。
文章を書くコツとして「誰にも見せない前提で書くことの重要性」を説いている本では、いろいろと気づくことが多かった。そこで最も重要なものは、文章への忖度ともいうべきか、もう少しきれいではない文章を書く重要性なのかもしれないということだ、と思っている。
あと、文体だけではなく文章全体も公開後の評判や受けに敏感になり硬直してしまうことが最大の壁として立ちはだかっているかもしれないことも考えた。
英語を喋るときに、確かに今の状態で話せと言われたらほとんど「まともな」英語ではないかもしれない。しかし、これまで数々のネイティブスピーカーに言われたことは、今の状態でしゃべっている英語は別段悪いわけではないということだ。そこで、ある事実に気づいた。それは、英語がむずかしいと思っていたことだった。
わざわざわかりにくいことを言う必要はないが、それにこだわって何も言えなくなる必要もない。これは非常に重要な事実である。
あと、もう少し「誰かに対して書くこと」は辞めたいと思ったりする。別段その誰かがいるわけでもなければ、その誰かが明日成功するわけでも死ぬわけでもない。なのにもかかわらずやたらと誰かを気にして文章を書くのは意味不明だからだ。
どこかの誰かも言っていたが、自身の著書が自分の専門領域でもなければ自分のオリジナルがあるわけでもない、ただ自分の言いたいことを言っているだけだと。それはある程度、面白い事実を包含している気がする。それは、知識や慣用的な習慣はもともとという状態がないことだ。
今書いているこの文章も、私自身の過去の経験や知識からくるものであり、私がこの世界に生み出したものは何一つない。
ただ書いているだけであり、呼吸しながらタイピングしているだけだ。もう少し付け加えれば、呼吸しながらさっき食べたパスタを消化しつつ、血液が巡っている状態だ。
ただそれだけが起きていることでありそれ以上でもそれ以下でもない。文章は三枚目くらいの顔でいいらしい。つまり、絶世の美女である必要はなく、イケメンを求めているわけでもないらしい。それはそれで面白くない気もするが、確かにそれでも成立はするだろう。