自律分散型社会を志しているクリプトにはかつてはFTXという救世主がいました。しかし、例の事件によってその代表格は交代を余儀なくされそうではあります。
では、CZ氏が救世主となったからといって、暗号資産は何らかの形で救われたと言えるのでしょうか。そもそもFTXの事件はクリプトを扱う側の一種の矛盾もはらんでいると言えます。それは自律分散を求める傍ら、中央集権型取引所をどこかであってほしいと思っているところです。
これはDEXが分散型だからと言う訳ではなく、実際DEXも中央集権的側面があることは事実ですが、本当の分散型にのめりこみたいという理由ではやっていないということです。
暗号の世界では、しばしば分散型で暗号化されたスマートな金融世界という風に解釈されることがありますが、分散というキーワードだけに言えば、それは資産の分散が望ましいのであって権力の分散を指しているわけではないようにも思えます。もともとは、イーサリアムなどをはじめとするプロジェクトが分散を謳っていましたが、時を経るにつれて分散ではなく集中しているのではないかという憶測のほうが大きくなっていきました。
バイナンスもまた、いつまでも長い繁栄があるとは思えません。先週、出勤拒否報道が瞬く間に広まり、FTX同様に怪しいのではないかという風潮が巻き起こりました。CZ氏は確かにCEXは今後のクリプトにとって重要なものであり続けると述べていますが、本当にその言葉通りになるかは全くわかりません。
ここまでいろいろと現行の暗号資産、特に分散型金融に対する考えをもう一度述べてきましたが、これからも誰が資金を管理するのか?個人なのか法人なのか、それは分散型が望ましいのか否かは、絶えず論争されていく気がしてなりませんし、もしもその論争を終える何かがあるとすればテクノロジーになるとは考えてもいます。