NHK大河ドラマ『どうする家康』第28回「本能寺の変」が2023年7月23日に放送されました。『おんな城主直虎』では「本能寺が変」というタイトルでした。『どうする家康』の方が真面目です。『どうする家康』前半のコメディタッチからは考えられないシリアス展開となりました。
徳川家康は本能寺の変の時に堺にいました。呑気に堺見物をしていたと描かれることが多いです。『どうする家康』では天下を見据えて有力者と人脈作りをしていました。この時期から家康が天下を意識していたならば、豊臣秀吉の時代は忍従の日々でしたでしょう。
その中で市と再会します。『どうする家康』では家康と市の間に恋愛感情を描きます。市は清洲会議から賤ヶ岳の戦いと運命に翻弄されます。家康は傍観者となりますが、『どうする家康』では、どのような気持ちで描かれるのでしょうか。
家康にとって市が思い入れのある人物ならば、その娘の江と秀忠の婚姻も思い入れのあるものでしょう。家康と市との会話では三人の娘の中で茶々に言及されます。大坂の陣の家康は豊臣家を滅ぼすことで凝り固まっていない苦渋の決断と描かれるのでしょうか。
市からは織田信長の思いが語られます。信長の父親の信秀は現代風に言えば毒親です。その親の死の間際の言葉が信長の行動を拘束します。芥見下々『呪術廻戦』は死の間際に言った言葉が聞いた人を拘束することを呪いと表現します。正に信長にとって呪いとなりました。
本能寺の変の実行者は家康と明智光秀のどちらになるのか視聴者を惹きつけましたが、信長の気持ちを知った家康は見送ります。家康黒幕説に対して歴史無視のファンタジーとの批判がありますが、優柔不断で見送りも詐欺と批判されるかもしれません。
家康は信長が瀬名や信康の描いた理想の国と相容れないと考え、天下のために信長の排除を決意したのではないでしょうか。信長個人が家康を友と考えていたということで天下における信長の評価を変えて良いものでしょうか。
しかし、立ち止まって中止することも大事です。これは日本の公務員組織が最もできていないことです。袴田事件の再審で検察の有罪立証が批判されていますが、これは一度決めた方針を見直すことができないためです。家康よりも行動力がある武将は存在しても、中止できる決断力が最後に天下人に押し上げるのでしょうか。
光秀は家康に織田信長殺しの冤罪を押し付けました。家康が信長の首を持っていったとし、本能寺の変で信長の首が見つからなかったことを上手く説明します。一方で光秀も家康に鯉が腐っていると言われた冤罪被害者です。
光秀は「あのくそたわけの口に、腐った魚を詰め込んで殺してやる」と家康への怒りを露わにします。これまで家康ら三河人は「あほたわけ」と言っていました。光秀の「くそたわけ」は美濃出身という地域差でしょうか。それとも「あほたわけ」と「くそたわけ」に相違があるのでしょうか。
光秀は『麒麟がくる』とのギャップが話題です。『どうする家康』の光秀では麒麟が来なさそうです。しかし、本能寺の変では信長に対し、信長は乱世を静める役目であり、その役目が終わったと言います。『どうする家康』の光秀も麒麟を意識しています。
『麒麟がくる』最終回「本能寺の変」
家康は信長に思いを馳せながら逃避行します。『真田丸』や『おんな城主直虎』と異なり、勇敢に戦う家康の伊賀越えです。信長のお陰で生きる力を得たとします。家康は信長を「我が友」と言いました。妻と長男を失った恨みはどこに行ったのでしょうか。
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