

はじめまして、ジェーン・スーです。
自身で企画した「第一回 不幸自慢大会Final」に自分で応募してみようと思います。
突然ですが、まずは私の将来の夢について。
目的を達するにあたり、まず、一生食うに困らないお金を手に入れます。
どうやってこの第一歩を達成するかについてのビジョンは全く持ち合わせておらず、堅実な積立や投資もせず、リスクをとりに行くわけでもなく、むしろ宵越しの銭は恥だとすら思っている私ですが、そんな私がそんな私のままなぜか突然一生食うに困らなくなることが夢への第一歩です。
この一歩を踏み出したら、あとは単純です。
日夜団地をうろうろしては困ってる人を見つけて助ける生活がしたいです。
貧困や家庭内暴力、育児放棄等からの脱却のためにその人たちが本来受けられるはずの支援を適切に受けるためのお手伝いです。
酔っ払ってこの話を人にこぼすと「当事者が情報弱者なのが悪い」など自業自得ではないかという反応が返ってくることが少なくありません。むしろそんな手続きさえできない人を助けてもつけ上がるだけで百害あって一利なしくらいのことを言われることもあります。
政治のことはよくわかりませんが、支援制度は地域や国をより豊かにするために頭のいい人たちが必死に考えてくれたものなはずで、つまり対象者に正しく行き渡れば行き渡るほどみんなが豊かになるはずだという前提は無知な私の妄想なのでしょうか。
そんなわけで私は地域や国家によるあらゆる支援はプッシュ型になって欲しいと思っています。そのためであれば徴税も勝手にしてくれて構わないしむしろそうして欲しいと思っています。ブロックチェーン技術はそのための一助にもなりえるのではないかと思っていたりもします。
いつかそうなってくれたらいいなとは思いつつ、政治的、法的、技術的にテクニカルな部分は全くわからないし勉強も苦手なので、とりあえず自分の足でできそうなことをして歩くおせっかいおじさんになりたいなというのが私の夢なわけです。
いつからそう思うようになったかは判然としませんがかなり若い頃からで、具体的に考えるようになったのは二十代半ばで2つめの会社を辞めた時だと思います。
時代と業界の特性が色濃い会社で、低賃金長時間労働で死ぬ気で働き、仕事以外の時間は1秒でも長く目を瞑ることだけを考えざるを得ない生活をしておりましたが、振り返ってみると時代としては過渡期であり、ふとした瞬間に「こんな思いする必要ないのでは?」という選択肢が目の前に現れることは多々ありました。なのでいざ行動に移してみると、驚くべきことにこの社会は私が「生きていくにはこうするしかない」と思い込んでいたことなど一切強要しておらず、むしろそこから抜け出させるための制度や支援に満ちていました。
自身が元々握っていた権利にはじめて目をやり、それを適切に行使するだけで全てが解決したのです。本来手にできているはずの対価も耳を揃えてキッチリと。
同じ学校を出て同じ業界に進み同じ悩みを抱えていた友人たちこれを伝えると、その友人たちも私と同じくその生活から難なく抜け出すことができ、皆に喜んでもらえました。
振り返ってみても、これに気がつく前後のどちらの方が生産的な仕事をしているかと問われれば圧倒的に後です。なるほどだからこんなに簡単に抜け出せるようにしてくれているのかと思うわけです。
少し前置きが長くなりましたが、このことはあくまで私の夢が具体的になったきっかけに過ぎず、根本的な部分は幼少期から思春期の体験に根ざしているので、ちょっと不幸自慢させていただこうと思います。
私自身の不幸というより、私が見て来た不幸の話が多くなると思いますが。
これからしばらく父母の話をするのですが、前提として私は二人に感謝しています。
我が家がちょっと変だったなと思ったのは大人になって色々と振り返るようになってからで、幸せな幼少期を過ごしたことは確かです。
幼少期は限界集落で祖父母に育てられたという話は過去に書いた気がしたので探して引っ張り出してきてみました。
変な話なのでこの時は深く触れませんでしたがなぜ私が祖父母に預けられたかというと、出張に行ったはずの父がレンタルしたスポーツカーの助手席に不倫相手を乗せて大事故を起こしたからです。不倫相手はその事故で死んでまして、かろうじて生き延びた父はなかなかの大怪我。数ヶ月から半年間は入院することになると当時聞いておりましたが、気がつけば父母が私を迎えにきたのは1年以上経ってからです。今だからわかりますが、事情が事情なので怪我以外に二人の間に色々な問題があったのでしょう。
その後も何度も父の不倫がバレたりそれに怒った母が子供を置き去りにして失踪するなどのイベントを繰り返しているうちに、次第に父が家に帰ってくる頻度は減り、数年顔を見ないと思ったら当たり前のように何ヶ月か家に居座ってはまた居なくなったりしました。父がいない時期は母が半ばシングルマザーとして3兄妹を育ててくれているかっこうになっていました。
それでも父はお金だけはキッチリ入れていたようで、不自由をした覚えはあまりありません。
今にして思えば母に対してどの面下げてのことかはわかりませんがたまにフラッと帰って来た時は、なにしろ陽気な人だったので家族でとても楽しく過ごしました。
なのでとても愛されて育ったという自覚があり、不幸に感じたことはありませんでした。この事実関係がありながら子供にそう思わせたまま巣立たせた母はすごい人だと思います。
兄妹が皆独り立ちしてからはじめて母が父に対する恨み節を言うようになったり、父に結婚の報告をするために会いに行った時にあれこれ聞かされたりしてやっと「あぁウチってちょっと変だったんだな」と理解しました。
理解してまず思ったのは、母には安心して子供を預けられる田舎があったからなんとかなったんだなということです。
すこし登場人物も時系列も変わります。
中学三年生になった春、人生で何度も経験したうちの最後の転校をしました。
その転校先ではじめて友達になってくれたAちゃんの話をします。そういえばここ数年会えていませんでしたが、一生の友達だと思っています。
私が住むことになったのはスラム街みたいな団地の近くの一軒家で、彼女は団地に住んでいました。
最初のうちはあまり学校になじめず、ちょいちょいサボってフラフラしていたのですが、団地には私と同じく学校という施設になじめない子供がたくさんいて、Aちゃんは私とそういうやつらの橋渡しをしてくれたりしました。
夜な夜なフラフラしているのも実は簡単なことではありません。怖い人から逃げたり逆に威嚇したりして安全を確保した上で行動する術を身につけなければなりませんし、なにしろお金も要ります。
安易に家に帰れば新しいお父さんから暴力を受けてしまったり、帰っても食べるものがなかったりで、私のように当然のような顔をして帰る家がある者ばかりではなかったですし、タバコ代だって今と比べれば半額ぐらいのもんでしたがそれでも中学生にとっては大変な出費でした。なので仲間内の親の会社に頼み込んだり高校生のふりをして建築現場なんかで働きました。結果的に中学生にしてはお金を使った遊びをしていました。
しかし私は彼らとは違い、何のストレスもなく出入りできる家があり、当たり前のように高校に進学させてもらい、当たり前の高校生活を送ることになったので彼らとは次第に縁遠くなってしまいました。
もちろんそれでも近所ですし、仲間内では珍しく高校に進学したAちゃんとは生活リズムも合うので定期的に遊んでいましたが、毎日のようにフラフラしていた頃と比べるとやはり徐々に疎遠になっていました。
ある日、Aちゃんの家の前にパトカーがたくさん止まっていました。
家から注射針がでてきたのだそう。もちろんAちゃんのものではなく、その父親のものです。
父親は連行されてしまいました。Aちゃんの家はシングルファザーでした。
兄がいましたがまだ若く、恐い仕事をしていたこともあってそこに世話になることもできません。
市街でスナックをやっているという話だけは聞いていた母親をなんとか見つけることができたので、高校を退学してその店を手伝うことになったそうです。
そこからは彼女のことは風の噂で聞くことのほうが多くなっていきました。
母の店を離れ、別の店で働いているうちに怖い仕事をしているお客さんとの子供ができたり、そのお客さんの部下から妊娠中に腹を刺されたり、それでもなんとか産んだり、その後別の人との間にも子供ができたりまた別れたり、なんだかんだで母親の店を継いだり
そんな風の噂を聞いているうちに私は大人になって東京で暮らしていました。
たまに帰省した時には彼女の店に行きました。元気にやっていそうで何よりでした。
彼女は、諸般の事情から選択肢こそ限られていたものの、幸い天武の才があったのか、生きるために自然と身についたのか、とにかくその店は後に彼女の意思でたたむまで何年も潰れることはありませんでした。余裕があったかまではわかりませんが、なんの専門的な教育も受けていない女の子が2人の子供を育てながら自分の才覚だけで何年も店を切り盛りしていたのはすごいことです。
して、本人たちを不幸扱いするなんておこがましいくらい立派な女性たちですがしかし、先に書き置いた自分自身の体験も踏まえ、本当はもっといろんな選択肢があったのではなかろうかとも思うのです。
実は最近母は母の意思で父と離婚し、ほどなくして自死しました。父は昔から変わらず何も言わずに母に生活費を送り続けていましたが、その父も何年か前に一度脳梗塞で倒れていて昔のようにバリバリ稼げる様子ではなくなっていましたし、かといって子育てばかりでまともに社会に出たことのなかった彼女はこのまま生きていても周りに迷惑をかけるだけだと思ったんだそうです。遺書によると。(親しい友人には脳梗塞と伝えていましたが、説明に時間を取らないと彼女のの尊厳に関わるし、長々する話でもないので、もしこれを読んでましたらそういうことです)
Aちゃんについて、先程自分の意思で店をたたんだと書きました。
彼女は店を持ってすぐに再婚していたのですが、その再婚相手は血の繋がらなない彼女の子供達を心から可愛がってくれていたものの、コロナ禍でギャンブルにハマり、そのための借金をAちゃんが何度返しても地元の悪い繋がりのせいでまた借金をし、このままでは不味いということで家族で新天地にて新たな一歩を踏み出すために店をたたみました。その何年か後、やはり新天地でも夫のギャンブル依存症は治らなかったそうで、辛い決断だが子供たちのためにも離婚して地元に戻ろう彼女は思った。今更スーパーのレジ打ちが自分にできるだろうか。そもそも地元に戻るための交通費すらない。そんな相談を受けたがその頃はお互いまだ若かったから貸してやれる金も限られていたし、せっかく貸したのにその日の食い扶持だけ繋いだら急いで働いてすぐにつっかえしてくる。なにか受けられる支援があるのではないかとあれこれ調べたが当時はAIなどもなく、県をまたぐということもあってなかなか手続きがやっかいで時間もかかりそう。その日食べるものにも困っているので働きに出ねばならず、それを待つ時間もそもそも手続きに行く時間もない。私の母のように安心して子供を預けられる場所さえあればまだ何とかなったかもしれないがAちゃんの家庭環境は先述の通り。
そんなこんなで右往左往しているうちに幸い、話を聞きつけた当時のお客さんが落ち着くまでは使っていいと言ってマンションの一室を与えてくれたことでなんとかなりました。彼女はたまたま接客業をしていて、たまたまいいお客さんに出会えていたからなんとかなったわけですが、
じゃぁ何のための制度なんだと思うわけです。
思えば、そのことに気がついたのは少し大人になってからですが、その日生きるのにも必死な人たちは使えるはずの権利や受けられるはずの支援の存在に気づくことさえできないという例はお母ちゃんやAちゃん以外にも団地でもたくさん見て来ました。
父親はおらず、母親はガンでもうすぐ死ぬと言っていたあいつはバンドをやめて通信制高校に通いながらバイトをしていましたが、この年頃の子供には無理があったようで、いつしかその通信制高校にも行かなくなってしまいました。
腹違いの妹の面倒をしっかり見ていろと血のつながらない父親から毎日殴られていたあいつは自分で学費をどうにかして高校に入るところまでは何とかできましたがすぐに辞めさせられてしまったらしいです。
みんなその日その時できることをするのに精一杯だったけど、もっと選択肢があったはずじゃなかろうかと思うわけです。
彼ら彼女らに選択肢を与えてやれないなら何のための制度なんだと思うわけです。
ものにもよるでしょうが、憲法によって課せられた国家の責任を果たすということだけがその制度の存在目的ではないはずです。
はっきり言って救いようのないクズだっていくらでもいたので、なにも社会主義的にあまねく貧困を救ってくれと言いたいわけではなく、せっかく頭のいい人たちが頭を捻った上で作ってくれた制度は正しい対象に正しく行き渡って初めて本来の効果が発揮されるんじゃぁないかという話です。
そんなわけ私の将来の夢は街のおせっかいおじさんになることです。
以上、あまりこの世界残し続けたくはないけどどこかで発散してみたかったあれやこれを書きました。
一日も早くこの記事が世界から葬られることを心から望みます。
ひとつよしなに。










