延喜式神名帳に記載された神社の考察や代表的な神社(厳島神社、伊勢神宮、出雲大社、諏訪大社、熊野神社などなど)もいずれ・・・・??^^;と、書きながら、アタマの中は、「遺跡」と「DNA」になってしまいました(笑)
まずは「遺跡から読み解く祭祀」
この「日本旧石器学」のHPを観ると、
・日本列島においては、北海道から沖縄まで旧石器時代遺跡が確認されている。
・日本列島においては旧石器時代と縄文時代草創期の遺跡/文化層の総計は16771。
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日本列島の時代区分&人口(旧石器時代~平安時代)を見てみましょう。
・旧石器時代 – 紀元前14000年頃
・縄文時代 前14000年頃 – 前10世紀
(紀元前2300年頃、人口は26万人位だったが縄文晩期には8万人位に減少。原因は 気候変動=気温の低下>貴重な食糧のナッツ類が激減>食糧難>人口減少)
・弥生時代 前4世紀 – 後3世紀中頃
(朝鮮半島から持ち込まれた稲作技術が全国に拡大>食料供給量アップ>紀元前2300年~紀元前1000年までの約1000年間で、8万人までの人口は、およそ8倍の60万人まで伸びる。)
・古墳時代 3世紀中頃 – 7世紀頃
・飛鳥時代 592年 – 710年
・ 奈良時代 710年 – 794年 (人口は500万人)
・平安時代 794年 – 1185年(人口は700万人)
(その後、人口は社会システムの変動、今度は温暖化等により人口低迷期に入るが、江戸時代に3000万人、また第2次世界大戦の惨禍にもかかわらず2008年には1億2,808万人のピークにまで到達した。その後、人口は減少(少子化・高齢化による)し、2100年には7500万人に下方修正予想報告。
ただし、世界は・・・
紀元前6150年~2010年の人口推移(なんだかまるでコインチャートみたい(笑)(ちなみに世界の人口は2019年の77億人から2030年の85億人(10%増)へ、さらに2050年には97億人(同26%)、2100年には109億人(42%)へと増えることが予測されています。地球はどうなっちゃうんでしょうね^^;)
※時代年数:wikipediaを参照、人口:ナショナル ジオグラフィックを参照
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気候変動=気温の低下によって、縄文晩期の人口は8万人位に減少しました。その時、彼らは、空を仰ぎ、太陽や月や星々に、そして食の神さまへ祈りを捧げた事でしょう。そこに渡来人が稲作の技術を持ち込みました。まさに神さまが降臨したと思ったのではないでしょうか?
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祭祀遺構、遺跡地層、縄文土器などを並べます。
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さて、具体的に旧石器時代~縄文時代には、どのような祭祀が行われていたのでしょうか? 正直、この領域の知識をあまり持ち合わせていません^^; ただ、以前にある遺跡を訪ねたことがありますので下記にまとめておきます。多少は祭祀の雰囲気が垣間見れるかもしれません。
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この日は抜群の天気で北杜市からは富士山、八ヶ岳、甲斐駒ケ岳が綺麗に望めました。
富士山 金生遺跡へ向かう途中から^^ こちら側から望む富士山は北西側に当たりますが、あまり雪が無さそうな・・・。川越辺りから望む北東側の富士山はけっこう白いですけどね。(2017.12)
金生遺跡付近から望む八ヶ岳
八ヶ岳・赤岳(2899m) 迫力ありますね~。
金生遺跡 入り口 「甲斐駒ヶ岳」が望めます。
甲斐駒ヶ岳(2967m)
こんな神々のような山々が望める場所に「金生遺跡」はあります。
金生遺跡・入り口の男根状の巨大な石棒モニュメント。何もこんなに大きくなくても(笑)バックに「八ヶ岳」が望めます。
金生遺跡 思っていたよりも小さかったです。
国指定の史跡として高い価値をもつこの遺跡は、縄文時代の後期から晩期にかけて祭祀を行った場所とされています。この遺跡から垣間見られる縄文人の生活は、清らかな水と、木々の豊かな実り、多くの動物と人との共栄など自然の宝庫であったこと
に間違いないと思われます。
また八ヶ岳山麓には存在しない花崗岩などの出土から、遠方との交流もあったと考えられています。そして何よりも膨大な数の石が集められた配石遺構の祭壇や土偶などから、自然を糧とし、また源として愛してきた縄文人の純粋な心を知ることができま
す。
自由に遺跡内に入ることができます。これには驚きました。
男根状石棒 ホントに縄文後期のものなのですかねー。なかなかリアルです(笑
石棒を中心に周りが少し平らになっています。しばらく座ってみました。少しタイムスリップできましたよ。
「石棺状遺構からは焼けた人骨片や耳飾などの装身具が出土」し、「イノシシ幼獣の下顎を火にくべるという宗教的行為」があったようです。縄文後期、この場所に人々が集まり、死者を弔ったり、子孫繁栄を願ったりしていたのでしょうね。
イノシシは多産であることから、縄文時代には豊穣の象徴として、縄文時代の精神世界においても重視されていたとされ、土器文様としてイノシシ装飾が見られる。by wikipedia
金生遺跡(きんせい いせき)
●山梨県北杜市大泉町谷戸寺金生に所在する遺跡。国指定の史跡。
●縄文時代の集落跡や祭祀施設と、中世の城館跡や集落跡が複合した遺跡。
●県北西部に位置し、八ヶ岳南麓の尾根上に立地する。標高は760-80メートル付近。旧大泉村域の最南部に位置。
●縄文遺跡が集中する北側をA地区、中世の遺跡が集中する南側をB地区として区分されている。A地区の縄文遺跡では、住居址群と配石遺構や石組など埋葬施設や祭祀施設が複合した遺跡であることが特色とする。
●八ヶ岳山麓は縄文時代の遺跡が濃密に分布する地域で、富士山や奥秩父連山をはじめ、後世に信仰の対象となった山々を望むことができる立地にあり、北杜市大泉町域でも縄文前期後半の天神遺跡をはじめ大規模な集落遺跡が見られ、祭祀的遺構も多い。
●金生遺跡は気候が寒冷化し遺跡数も減る縄文後晩期の遺跡。
●1980年(昭和55年)、山梨県教育委員会による発掘調査が行われ、38棟の住居址、5基の配石遺構が確認されている。住居址は縄文後晩期が中心で、竪穴式住居や敷石住居、石組住居など。石組は方形や円形で立石、石棒、丸石などが配置された形態で、石棺状遺構からは焼けた人骨片や耳飾などの装身具も出土しており、墓前祭祀行為が行われていたとも考えられている。
●出土遺物は200点を越える土偶のほか石棒、石剣、独鈷石、祭祀用土器などの祭祀遺物のほか、日用品や土製耳飾などの装身具が出土している。
●動物遺体では縄文時代のツキノワグマ、イノシシ、ニホンジカ、ニホンカモシカなどが出土している。特に遺跡一角の直径1.3m、深さ60cm程度の円形の土坑内部から、大半が幼獣である焼けたイノシシの下顎骨が138個体分出土している。出土した下顎骨は115体が幼獣のもので、多くが非熱していることが指摘される。こうした出土状況から、イノシシ幼獣の下顎を火にくべる宗教的行為が想定され、アイヌのクマ送りの儀礼であるイヨマンテに通じる何らかの狩猟儀礼や農耕儀礼が行われていたとも考えられている。また、縄文時代にイノシシの飼養が行われていた可能性がある事例としても注目されている。
●B地区からは縄文後期や平安時代の住居跡も見られるが、中世の遺構が主体となっている。15世紀のものと考えられている49基の地下式土坑群や人骨が検出された墓坑や、16~17世紀の住居跡が10棟以上、溝状遺構や内堀、水溜と考えられる石組遺構が検出されている。地下式土坑は墓所や貯蔵穴、隠れ穴などの説がある。位置的に隣接する旧長坂町域にあたる深草館跡の外郭部遺構と考えられている。出土遺物は土器や陶磁器類、石臼など石製品や金属製品などの日用品、銭貨など。
●縄文時代の精神文化がうかがえる貴重な遺跡として、発掘調査の行われた翌1983年(昭和58年)に国の史跡に指定された。付近は住居が復元され、公園として整備された。出土遺物は甲府市の山梨県埋蔵文化センターや山梨県立考古博物館などが所蔵している。
by wikipedia
この遺跡付近は、ホントに素晴らしい山々(甲斐駒、八ヶ岳、富士山)を望める場所で、穏やかな空気・空間に包まれていました。縄文の人々の暮らしを思い浮かべることができそうでしたよ。2017.12
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