もずく・Ð・脳とか好きです。
ただいま新カテゴリ総選挙にて「教育・子育てカテゴリ」を絶賛推進中ですが、
本記事はそれとは全く関係なくて、さっき歩いているときにふと考えたことをメモしておきます。
何かを考えているときって、両目の奥あたりに《私》がいるような感覚がありますよね。そこが顔なんだから当然な気もしますが。
でも、実際には脳で考えているわけで、思考とか高度なことをやっている前頭葉という部位は両目の奥よりもう少し上にあります。
もっとわかりやすい例でいうと、つま先を家具にぶつけたとき、痛みを感じている器官は脳なのに、痛いのはつま先ですよね。
当たり前のようでいて不思議な話です。
これは、脳の中にはホムンクルスと呼ばれる小さな人体マップがあって、知覚した刺激の発生場所はそのホムンクルスの該当場所と対応づけられるからです。
そうすると、痛みは、痛みを知覚した場所で生じたように感じます。同じように、視覚は目、聴覚は耳、嗅覚は鼻のところから受け取っているように感じます。
これもまあ不思議な話で、知覚がマッピングされるホムンクルス自体は脳内にあるのですけどもね。そこは深く追求しません。
知覚には色々とあって、身体を動かしたという感覚(体性感覚の一部)も、ホムンクルス上でその動かした部位に対応づけられます。
右手を動かしたときの感覚そのものは脳で生じているのに、ちゃんと右手のところで動かしている感じがするのはそのおかげです。
そんな感じで、脳の入出力はすべてホムンクルスという身体マップに対応づけられて、その場所で生じているように感じられるのです。
さて、話を戻して、「考えている」という感覚(=《私》の居場所)はなぜ両目の奥あたりで生じるのでしょうか?
それは、思考という処理が「聞く」「見る」を中心とした知覚行為であるからだと私は考えています。
両目の奥というのは、両耳を結んだ線の中点でもあります。聞く・見るという行為がホムンクルスを通して両目・両耳の中心点で知覚されるのです。
何かを考えるとき、それが言葉として表現されることが多いと思うのですが、《私》はそうやって頭に思い浮かんでくる言葉を聞きながら考えています。また、頭の中に浮かんできたイメージを見ながら考えることもあります。
思考とは、自分の内側の世界を見たり聞いたり、時には嗅いだり触れたり動かしたりする行為(行動)であり、切り離すことはできないのです。
実際、思考しているときの脳をMRIなどで観察すると、行動するときに使われる部位も活性化しているそうです。
cogito, ergo sum 我思う、故に我あり。
訳としては「思う」よりも「考える」が近い…と何かで読んだことがあります。
思考していることが《私》の存在を確定するのなら、思考しているという感覚が生じる場所が《私》の居場所となるはずです。
思考だけではありません、知識や記憶を取り出すのも脳内での「見る」「聞く」といった行為です。
何かを思い出すというのは五感や体性感覚でもってそれを追体験することです。
記憶は、いまの《私》を過去の自分を結びつけることによって、《私》を「過去から継続する固有の存在」として形成します。
そういう意味でも、その《私》がいる場所は、ヒトにとって五感の代表である視覚と聴覚が知覚される場所(両目と両耳の中点)に位置づけられるのです。
ということで、《私》が両目の奥にいることはなんとなく主張できました。
関連する話として、感情(心)の在り処はどうでしょうか。
心の在り処というと、なんとなく心臓のような気がしますよね。なぜでしょう。
感情ももちろん脳で発生しているのですが、脳にあるようには感じません。
悲しかったり切なかったりすると心臓のあたりがキュッとします。怒ったり興奮したりすると心臓がドキドキします。
思考と同じように、感情もこのように知覚として《私》に伝わってきます。なので、感情の在り処は知覚が生じている場所にあるように感じられます。
そして、感情が心臓のあたりにあるような気がするのは、感情によって一番大きく変化するのが呼吸と鼓動だからです。
それ以外にも、手足の温度や背中の発汗など、感情で変化する知覚はたくさんあるのですが、呼吸と鼓動の変化が一番顕著なので、感覚としては心臓のあたりにあるように感じます。
ということで、理性的な《私》は両目の奥にいて、感情(心)は心臓のあたりにある…という結論になります。
もちろんすべては脳で生じているわけですが、《私》という存在も含めて「感じられること」が我々にとって事実なのです。
以上、今週のポエムでした。