突発性発疹から回復した子は、今日は朝まで起きず元気に登園した。妻も私もよく眠れたので調子がいい。久しぶりのいつもの朝だ。今日は私は休みなので新しい自転車を探しにいこうかな、と思ったが通例的に水曜はお休みらしい。息子を送った帰り道は、戻り梅雨の合間に顔を出した日に照らされ蒸し暑く、草原やひびの入った道路が匂い立っていて、また自分が子供の頃を思い出した。
小学生低学年の頃は、通学路にせよ遊びの行き帰りにせよ、目に見える風景や道の印象が強かった。生えている知らない草は図鑑で調べたりするまでもなく触り引き抜き嗅ぎ、恐る恐る口に入れたりして知っていた。人が通る広い道、誰も通らない道、フェンスの穴をくぐっていくような道なき道、それぞれそこにあるものが道そのものの印象を形作り、匂いや経験も積み重なって詳細に記憶していた。動物の死骸にもあった。
大人になると移動する目的や理由、何の為にあるのかなど、情報で場所を捉えるようになった。やっぱり好きな道や苦手な場所はあるが、目的地までの最短距離を選ぶことが多いし、いちいちその場所の匂いも嗅がない。植物も名前と特徴を思い出してわかった気になる。その場所にあるそれの歴史などに思いも馳せない。情報を圧縮して単純化し、いちいちそこにあるものと「出会わない」ことで、脳のリソースを保ち心の安定を保とうとする。目に入っても自分に関係なしとすれば見えないし記憶にも残らない。
もったいないことだ。目的や建前や予定、断片的な知識などを優先的に意識することに捉われると、その場にあるものの実体を知ることが些末になってしまう。写真やスケッチ、映像を撮るなどのツールや目的すら必要なく、じっとその場に居て味わい心に刻めばいい。せっかく生きているのに出会わず、感じないのはもったいない。
朝起きるとまず、やるべきこと、やらなきゃならないことより、今日やりたいことを思い浮かべていた子供の頃。やりたいことの中にはあの道を通って行きたい(道にある様々なものに触れ出会いながら行きたい)も含まれていたと思う。大人にとっては些細でしょうもないと思われるような、場所との出会いが子供の頃は重要だった。それは大人にも重要である筈なのに、忘れてしまっていたと思った。