私はアルコールが入らないと書いた文章を公にしない。例外もあるが、その傾向が強い。こういうことを書くと内容が意味不明な事への言い訳と思われるが、その通りである。更に言い訳だけでは言い足らず説明までしようというのだから、読まされる方はいい迷惑である。
自分が何か気付いたと思った時、気付きのきっかけになった観察している対象は、全て自分の経験である。主観を通して得た情報同士を偶然結び付けたような経験が、何か発見した気にさせる。その気付きは、自分の脳内にある神経細胞が新たなルートを得たということかもしれないが、他者にとってはそうではない。自分にとっては新鮮な発見だったとしても、その気付きの材料になる情報が客観的な事実なのか、また既に誰かが言っていることなのか、思い付いた時点ではわからない。更に検証しようとしても、自説を補強する情報ばかりを無意識に選んでしまったりするし、調べる対象も他人の主観による情報だったりする。文章は特にその傾向が強い。それなのに「検証した(つもり)」という事実が、その気付きを普遍的な事実だと思わせたりする。そして陰謀論のようなものや社会的な活動の攻略法みたいなものとして、大いばりで公に出されたりする。大概が気のせいで、お前だけの情報がお前だけにわかる形で繋がったということに過ぎないし、事実とは異なり偶々そう見えただけのことである。当たり前のことだと思うし現実とはそういうものだと思うが、私は不親切なのか文章でもそれが伝わらない。結果として自分だけの現実を事実だと思ってると思われたくないので、シラフの時にはあまり公にすることがない。
人類、日本人、共同体を同じくする人間に共通の発見をすることは、私のような怠惰な凡人には一生に一度もない。酔っていてもシラフでも、主観と気付きの関係は変わらない。だから「これはすごい発見だ」とは言えない。だが自分にとっての新鮮な驚きは、偶々自分が経験したことの感想としてできれば共有したいと思う。シラフの時は精々妻に言うか、メールの下書きに残しておくくらいで公にしたいとは思わないものが、酒が入ると視野が狭くなり目前の情報の対処を蔑ろにし始めるため、ぽろぽろと公に出し始める。要はインプットよりアウトプットが優先される。自分だけの現実を事実だと思ってると思われたくない気持ちを、自分の現実はこうなのだと言いたい気持ちが上回る。言ってどうするのかといえば、問いたい。それが事実とどう関わっているのか、他人と共有され得るものなのか、批判されるものなのか知りたくなる。他人より自分が優れているとは全く思わないが、他人と自分は環境の違いにより違っていることは強く意識している。公にすることで「一緒にするんじゃない」と言いたい気持ちは強い。シラフでは内容が気になって出せないのに、酒に酔うと内容など関係なく出したくなる。自分の経験をできるだけ記録しておきたいという欲望も強く持っているため、酔った自分はシラフの自分には許されるだろうと甘えている。先に「不親切なのか」と書いたが、事実を追求したり伝わる表現を磨く努力を一切してないので自信がないのである。
知人の年配のアル中はひどく酔うと幻覚を見ていた。例えば自分が寝ている3階建ての家が大音量の音楽が鳴り響くクラブになり、全裸の黒人がカウンターの向こうから酒を注いでくれたり、ありがちだが小人の大名行列を見たりする。場所も人物も音楽も、あり得ないのにリアルな幻覚。それは彼にとっては現実なので、現実に応じた行動をし、パトカーで連行されたり、鍵のかかる個室に強制入院させられたりしている。彼は基本的に平和主義で他人にも優しいが、自分の本性や欲望に忠実でいたいという気持ちが強く、常識を逸脱してしまうため、結果的に親しい他人に迷惑をかけてしまうのであった。そのアル中が最近、幻覚を見ないのだという。「本当にオカシクなってしまったから幻覚は見なくなった」と言っていたと、迷惑をかけられている人から伝えられた。全く甘えている。だが、ダメな酒飲みとしては親近感を覚えてしまうのも事実である。
複数の人に認められる客観的な事実ですら「そうならない可能性もあったのに偶然そうなった」だけである。また幻想や嘘も、他人と共有されることで現実化しかねない(あくまで事実ではないのだが)ことなどもあり、個人が見ている幻想は侮れない。それが幻想から一歩進んで幻覚、はっきり現実として体験できるレベルとなると、外部からインプットされる情報を完全に主観のフィルタが自分好みに歪めていて、羨ましさすら覚えてしまう。「自分にとっての現実が事実だ」と他人に強制しないのなら、どんどん自分だけの現実を楽しんでいればいいのではと思うこともある。
だが実際はそれでは生きていけず、例えば権力者も「自分の現実を事実だと思いこだわる人」をこそ利用しようとするだろうから、ずっと酔っぱらっているわけにはいかない。だがシラフで知覚する現実と酔ってみる幻覚とは基本的には同じだ。化学物質の影響で主観の在り方が一時的に変わっているだけで、主観を通してしか事実に触れることはできないことは変わらない。現実と幻覚、現実と事実はそれぞれ異なるものだが部分的に重なっていて、酒を飲むと重なった部分しか見えなくなり混乱のあまりに吐き出してしまうのだろう。酔った頭では現実、幻想、事実の重なりについて、他人に理解出来る様に論理的に説明することができなくなる。勿論、完全に理解されることは不可能だしされる必要もないのだが、公にする以上は努力せえよということで、それを怠る自分も大概甘えているのである。妻は今日もかわいい