散歩の時に目にする他人の家は、個人の手が入っていると面白い。建売住宅などの画一的な住居であっても、子供の成長や一時期何かにこだわった名残など、住人のタイムラインの変化が表れていると見飽きない。敷地の広い家の余裕がある故のレアなプランを見るのも面白いが、やはり一目で全体が見渡せるサイズで、更に住民の手を入れやすい木造住宅となると、増築や破壊の痕跡はもっと大胆で面白い。また敷地内の木々や草花も人とは関係なく成長していて面白い。別に意図したわけでもないのに、他人の生活の痕跡というのは表現の一種として楽しめてしまう。
それはきっと、一人の人間が一時に考えたプランではないからであり、予想もつかない変化や、他の生物の干渉を経て、時間をかけて出来上がった風景だからだと思う。つまり人知を超えた作品だからである。部分的には最初の意図は判るかもしれないが、総体として現在何故こうなっているのかは、想像しても判らない。偶然の痕跡を含んだ表現は面白い。知識不足ゆえに作り手の意図を追えなくなった縄文土器などは「なぜこうなった」の理解が最初からある程度放棄されているので、純粋に形状や色に集中できて好きなのだが、これも好きな理由として繋がっているかもしれない。
考えてみると何を面白いと思うかについて、上記のようなことが当てはまるのは家だけではない。人の体自体がそうだし、長い文章もそうだ。表現は主体の意図だけではなく偶然の客体の訪れにより変化するので、その積み重ねが一義的にまたは単純にこうだと言えない状態になっていく。全く意図していなくてもそうなっていき「なんでこうなった」と読み手の想像を超えてくる。生物が表現したものだけでなく、生物の体や環境そのものも複雑に変わっていくので面白い。赤ちゃんや幼児の面白さは「何考えてるかわからない」から予測を超えた動きをするからであるが、老人や古い建物の面白さは「無数の経験による痕跡の総体」ゆえに、何でそうなったか一目ではわからないことにある。
「なぜこんなところに窓が」と思われる文章もあるだろうし、「意図的に調和を崩した流れだ」と思われる家もある。受け手には計り知れない変化は、快さや飽きなど主体の状態に応じて生じてくるので、自分の感覚に正直でいられたら、少なくとも周囲にとっては面白くなるのだと思う。ちなみに私は自分の家を一からデザインするなんてまっぴらごめんである。既にある素敵なおうちが空いたら中に納まって、その時自分達に必要な形にカスタマイズしていけたら最高で言う事ない。日当たりがよくてネットさえ繋がればどこでも住める。沖縄の古民家、沖縄の古民家に住みたい。