好きな理由は言葉で限定され得ない。言葉にすることで自覚し易くなるが、説明になってしまってはつまらない。自分が好きなものを作ることで深めたり、伝えられたら面白いのだと思う。
自分が好きと感じている様子を観察してみる。好きなものを思う時、情景が浮かぶ。具体的には知らない町の一角や自然の中にある建物などであり、その暗がりに透明な身を潜めている。歌や絵などで直接的に導かれる景色もあるが、好きと感じている時には自分だけの場所からその景色を眺めている。そこは行ったことはないが懐かしくもあり切ない気持ちになるので、記憶と願望を材料に作られた場所なのだろう。言葉で記述し得る実際の特徴がどんなものであるかより、切ない場所を想起させるかどうかが重要みたいである。好きには必ず切なさがある。
切なさに浸れる場所の幻視は、好きなものがある限りいつでもできる。幼い子がぼーっとしているのを見ると、浸っているなと思う。悲しい理由による現実逃避でなければいいのだが。ともあれ私も子供の頃は、押し入れの中や物置の中の薄暗がりに横たわって幻視に集中していた。だが妄想に浸るのは不道徳だと言われたり現実が忙しくなったりしている内に、段々しなくなる。大人になると妄想に浸るより、酒に酔って自分を失くすようになる。現実逃避は私の方であった。
大人になってからも、人目をはばかることなく幻想に浸っていられる時間が誰にでもある。眠りに落ちる時である。半覚醒時は理性による制限から解放されているので面白い。ある時期は私自身が知らないおばちゃんになって、関西弁で始終話し続けていることもあった。時々金縛りにあって怖いものを見たりもするが、大概ある程度はコントロール可能なので何にでもなれるし、どこにでもいけるという万能感がある。
半覚醒時に暗がりで想像の指揮をとるのは誰なのだろうか。間違いなく私なのだろうが、睡眠中の自然の私から要請を受けて顔を出した知らない人のようだ。覚醒時に好きな幻想に浸る私は、理性にとらわれない万能感のある私とも繋がっている。何かを作っている時というのは、私の自覚がスライドしている状態なのかもしれない。