坂口恭平がインタビューで「好きとは自然に忠実であること」と言っていた。画家のセザンヌが言っていたとか。自然とは混沌であることだと思う。だから自然に忠実な表現とは、混沌に身を任せて自他の状態の変化を意識しながら「よきところ」を掴んで自然の相似形に近づけようとすることかと思う。難しい。常に移ろう流れを感じているような、変化を敏感に捉える人にとっては、尚更難しいと思う。自然とは何か、自然に忠実とはどういうことか、改めて考えると難しい。だが既に無数の先人たちが、あらゆる分野でそれを掴んでいる。それを知ればよいのである。知るとは学びであり、好きの探求である。その人の好きが芸術指向であるなら、好きを追求するだけで自然の忠実な表現を捕まえていけるかもしれないと思う。
娯楽と芸術の違いについて多くの人が考えていると思うが、目的の違いでしかないような気がする。自然という視点で言うと「誰もが瞬間的にわかる様子」が必要なのは、娯楽も芸術も大差はない。辛い現実から目を背けられるのが娯楽であり、現実そのものの姿を知り喜べるのが芸術なのではないか。あえて人工的な幻想を求める状態もあるし、普遍的なものを喜べる状態もあると思う。それは受け手次第である。
プロとはなんぞやといえば、再現性があるということだ。他者に求められるものを再現できるということである。再現には「こうすればこうなる」「ここならできる」といった知識や技術が要る。プロがかっこいいのは、混沌とした自然をある程度制御できているように見えるからだろう。大変そうだが、本来職能というものはその人に向いていること、苦ではないことにおいて身に付いていくものだ。自分が好きなことを求めた結果、プロになっている。好きの追求以外にプロになる方法はない。
私はプロではない。研究者でもなく、芸術家でもない。再現できないので、他者からの信頼はない。それでも行き会う一回性に感動して満足していた。SNSの投稿を見ていると、行き会った偶然から「自然に忠実であり、面白く、美しい」を掴んだものが、共感を広げ、拡散されていると思う。それらは偶々掴んだとも言えるが、その人自身の世界を見る感覚ゆえに掴めたとも言える。ネット上においては、誰がそれを掴んだかよりも、その人が掴んだ素敵な一回性が評価されているような気がする。人工的な場所でも自然であることが評価されているのが面白い。作為は皆嫌いなのだ。
全く同じものを再現することはできなくても、アンテナとセンスがあればまた評価され得るものを掴むことはできるだろう。プロでなくても、好きなものを探す意識さえあれば、楽しく生きていけるのだと思う。でもアンテナとセンスがある人は、他者を喜ばせたり、生きているのが楽になるようなことを発信できるわけである。坂口恭平のように。好きなものを探し、好きな理由を探り、好きなものを作る。そこに嘘が入り込まないよう、自分を追い込み本音を引き出す。私も自分が掴んだ素敵な一回性をもう少し再現できるよう、もうちょっと感じて探していきたいと思った。人生も一回だ。私のそれは見え得ないものを感じることであり、不可能への挑戦なのだと思う。