嫌いなものへの対処法
私の嫌いなものは、幼稚な作為である。幼稚とは混沌とした自然や、制御できない現実を拒絶する様子だ。自分たちに都合の良い単純な物語が作られるのは無知なままでも理解できるからである。幻想を現実と思い続ける為に用いられた挙句に、幻想が現実であるかのように他者にも押し付けてくる作為を、私は嫌悪している。前回「好きなものを探し、好きな理由を探り、好きなものを作っていこう」と書いた。だが実際に自分の外に目を向けると、見せられる大半のものが嫌いである。自分の中にすらそういった作為を発見することもあり、落ち込む。
以前の嫌なものの基本的な対処法は無視することだった。目にしても意識は向けずにスルーして記憶しないようにする。広告のデザインや芝居といった表現の現場では作為の見え方について学ぶ機会も多かったので、逆に嫌な作為のスルーも上達していった。これも作為、あれも作為。現実や自然に即した表現は素晴らしいと思うが、嫌いな作為の方が圧倒的に多く目に付く。自分が無力であることを隠そうとするのは、弱いんだと思う。いや弱くてもいいんだけど、隠すなよと思う。
癒しは消去法で自然になる。だが作為の中にも癒しはあった。それは理解不能で意味不明なものや、芸術であった。「どうだ変だろう」と主張してこないものがよい。変なものは変である。芸術はもっとよい。世界は他者も含めて見たことのないもの、自分にはわからないもので溢れているということを実感できる。そこで感じるのは、生きる事に退屈して死ぬことはないという安堵感と、人の感情と技術はどこまでいくのだろうという期待感である。それらは自分が限られた存在であること、その矮小さゆえに感じられる希望である。
混沌とした現実を肯定してみせてくれるのが、私の好きなものである。好きの追求だけしてきたらよかったのだが、生来の怠け癖(まだ生きてるだろうという油断)と直面する厳しい現実に、もっと楽な方に逃げた。酒を飲んで意識レベルを低下させ、欲望だけに自分の目を向けさせることだ。外側の世界の解像度が下がると、それが個別に何であるか考えることはなくなり、単純な属性と直近の動きだけ自覚するようになる。老化で物理的にものが見えなくなることも手伝って、発見や変化のない自分の内面に閉じ込められ、長い間飲んだくれてだいぶひどかった。酒に酔ったおかげでよかったこともあったが、それはただの幸運である。
直面した現実の厳しさは他者と比較できるものではないので書かないが、結果的に帯状疱疹や血尿は出た。沢山人を傷付けたし一生分泣いたりもした。私の共感の求めなさは異常らしく、とっておきのエピソードも書かないけどある。ともあれ酒に溺れて楽をした弊害は、端的に言えば心が死ぬことであった。閉じた世界にいることで辛さからは逃れられるが、発見はないので感情が動かない。幸い体が動く内にその環境から抜け出すことはできた。自分の外側の世界に対して予測や想像はしてもよいが、無視してはいけない。自分と関係ないというのは、関係するという選択をしてないだけである。自然では全てが関係し得るし、何でも起こり得ることを忘れてはいけないのだと身を持って知った。絶対に自殺をするつもりはなかったが、私自身が嫌いな作為そのものになってしまっていることに気付くと、死にたくなるものである。
嫌いなものが大半の状態では、自分の好きなものだけ見ようとするのは難しいように思える。だが自然や、作為を喪失した無意味な人工物や芸術は、自分が目を向けると必ずある。ないと思えば見つからないが、あると思えば絶対にある。近所を散歩しても、自分の行動を見ていても、他者の無意識に目を向けても見つかる。
昔の映画の話
最近懐かしい映画を観た。M・ナイト・シャマランの『シックスセンス』と、黒沢清の『CURE』である。懐かしいといっても、精々20年ちょっと前の作品である。どちらもオチは知っていても繰り返し楽しめる良作だと思う。演技もよいし、映像や音の演出、編集もよい。以下はネタバレも含む。大したことは書いてないので、次の段落まで読み飛ばして頂いて構わない。今回観て、繰り返し楽しめる理由として思ったのは、現実の連想のさせ方である。『シックスセンス』に出てくる死者は自分の見たいものしか見ず、自分が死んでいることに気付いていない。最初は私も生きている側のものとして観ているが、自分も死んでいることに気付いていないだけかもしれないという疑いを持つ瞬間がある。生きていることを証明する方法は、具体的に考えると日頃意識的にしていることの中にはないような気がする。心が死んだ状態で生きている人間は、死人ということもできるだろうと思う。『CURE』は他者を殺すことによって癒され、救われる人たちの様子が描かれている。とんでもないことである。愛したり憎んだりしている状態は固執だ。固執を手放すと楽になるのはその通りだろう。だが固執する相手の存在を消すという手段は安易過ぎる。ゆえに滑稽に描かれている。この作品が現実的なのは、登場人物たちが一様にストレスに晒され、苦しんでいる点である。誰も何もしてくれないので自分で何とかしろというのは、日本社会の一面として確かにある。また社会的なアイデンティティを放棄した(と思っている)狂人が主張する「空っぽである状態の気持ち良さ」には共感できる。映画が作られてから20数年経った現在、限界を超えても自己責任が強要される社会において、自分が死んでいることに気付いていない死者の数は、ずっと増えているような気がする。
死に救われるということ
嫌いから目を背けていたら私自身が嫌いそのものになってしまったり、好きを見つけて楽しんだりしてきて実感するのは「生きていくとは死んでいくこと」という当たり前のことである。自分の意志で生まれてきたわけでなくても、好きなものを見つけるとまだ生きていたいと思うようになる。落ち込んでいる時に偶々目にした漫画など、他者の表現に救われた経験もある。好きな表現には、生きていることの嬉しさ、悲しさを肯定したいという作為があり、その前提には必ず死ぬという事実がある。
これまでも色んなところで言ったり書いたりしてきたが、私が好きな感覚の中に「未来郷愁」というものがある。これは夕餉の匂いを嗅いだ時に起こるもので「自分が生まれる前や今と同じように、自分が死んだ後にも同じ匂いがしているんだなあ」という思いである。端的に言うと切なさの一種だ。逆に「今目にしているこの素敵な瞬間は二度と起こらないんだなあ」といった状況で感じる切なさもある。いずれの切なさも、自分が必ず死ぬこと抜きには感じられないと思う。私がよく自分不在の世界を想像するのは、死んでしまった状態をさみしいと思いつつも、どこかでもう生きなくていいのだとほっとしているからである。死んだままで、変わりゆく自然を愛でていられたら最高なのだが、それは幽霊である。ちなみに物語と共に語られる幽霊はわかりやす過ぎるのであり得ないと思っている。が、私ごときにあり得ないと思われることは、やっぱりあり得るかもとも思う。
日常的に目にする「なんだこれ笑」という、意味を消失したおかしなものも好きだが、今感じる切なさを形にしたいという固執も好きである。表現とは不断に変化し続ける混沌とした自然の中から、自分が素敵と感じたあり方に固執し、何らかの手段で固定し保とうとする不自然な行為である。変わり続けること=生だとすると、変わらない状態=死であり、その意味ではどんな表現も死を指向していると言える。表現に救われるというのは、他者が固執した死に触れることで自分が固執する死も受け入れられることであり、殺したり殺されたりすることではない。老衰であれ事故であれ、制御できない死を迎える途中の、生きている=死んでいく様子にこだわる様子が、自分とおんなじだなと思って救われるのかもしれない。
不純礼賛
世の中に存在している、純粋であり無邪気であり、ナイーブであることを魅力とする価値観は消えてほしい。純粋であること、無邪気であること、ナイーブであること、それら自体に問題はない。それらを称えられるべきとする価値観が嫌なのである。常識として押し付けられる純粋さは、幻想や作為によって既に純粋ではないし、不幸しか生まない。この価値観は、自分とは異なるものに対する無知の結果存在するのだと思う。生きているだけで知識や経験は増え続け、無知からは遠ざかっていく。更に異なる者を知ることで不純になるのは老成である。混ざりまくって皆の区別が付かなくなっていく方がよい。それを「汚れた」などと否定的な言葉で捉えるのは間違っている。また人間の中には嫌なもの悪いものが沢山あり、それを隠そうとする弱さや醜さも沢山ある。私自身も大半が否定的なものでできており、それらを隠す作為で溢れている。もっと不純に、もっと恥ずかしくても隠さないようになりたい。そして意味も無く球を壁に投げたりしながら死んでいきたいと思う。