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意味と表現

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  • 2020/02/23 03:50

 少しは意味が有ることをしたいと思う。自分にとって意味が有ること、それは家事である。必要になるまで掃除はしないが、料理と洗濯は毎日している。家事は楽しい。でもしたいことをするから楽しいわけではない。しなければと思ってしている。では家事の何が楽しいのかといえば、自分の好き勝手にしていられる時間でもあるからだ。合間に意味も無く体を動かしたり、偶然何かを聞いたり、気が向いた方を見て、触って確かめたりしている。好き勝手にぷらぷら動いているのが楽しい。 

 家事もしなければもっと楽しいかといえば、そうでもなかった。自分で意味が無いと自覚してることしかしていないと、なんとなく不安になってしまうからだ。理由は色々ありそうだが、ともあれ何かしら意味があると思えることもしていたいのだろうと思う。意味と無意味のバランスが、家事は丁度いいのかもしれない。 

 鍋底の焦げを落としたり風呂場の床を磨くなどしていると、時々無心になるのもよい。集中して自意識が無くなると、元々の意味がどうでもよくなってくるのも楽しい。もし意味のある行為だけを強制され、偶然との出会いを制限されたら、とても生きていけないなと思う。私は閉所恐怖症でもあり、身動きがとれなくなるのが怖い。 

 家事以外に無心になれるのは、こうしてつれづれと書いたり、生理的に映像の切り貼りをしたりしてる時だった。特につれづれと書く事においては、一番最初の一気に書いている状態がそうだ。後で見直して手を入れるのは割と苦痛で、しかも容易に嘘っぽくなってしまって嫌なのだが、これも意味/無意味のバランスをとっているということなのかもしれない。 

 唐突だが、表現すること自体に意味はあるとは思っている。「私とあなたは違っている」からだ。異なる情報を共有できる。違っているというのは、個々人のDNAからそうだ。いつどこにどう生まれたか、周りにどんな人がいてどんな影響を受けたか、何を見聞きし食べどう感じ考えてきたかなど、これまで経験した時間もこれから経験する時間も、何一つ同じではない。もし同じ何かを観たとしても、同じ場所から同じ気持ちで同じ所を観ることもないし、観終わって記憶に残る部分も違う。

 例えば映画を観るとして、鑑賞前の経験や知識(更にそれらによるフィルタ)、鑑賞中の作者の意図の解釈と感情移入の有無、鑑賞後の印象や感想、なにひとつ同じではない。今この瞬間も全ての人が違う瞬間を生きているわけで「違っているなあ」と心から思うし「心をひとつに」なんて絶対になるわけがない。バラバラの心で協力できたらいい。話が逸れた。とりあえず違っているんだしと思えば、表現することを始めるハードルは下がる。 

 だが表現されたもの全てが素晴らしい訳ではない。みんな違ってみんないい訳がなく、大半はしょうもない。他人に向けて行われる全ての動作を表現と捉えた場合、96%位はしょうもないのではないかと思う(数字に根拠はない)。その全てに普段は意識しない理由を見出すことも可能だろうが、それこそ意味がないというか、大抵の場合暇つぶしにしかならない。 

 他者に伝えるということ自体がとても難しい。他人と共有できるもの、言葉や知識がまず必要だし、伝える時に使うツールの理解も要るし、伝え方、伝わり方について客観的な経験の積み重ねも要る。相手が求めているものを考えなければならない時もある。そもそも何かを感じた瞬間に生じた思いを、その都度全て記録することはできないし、次の瞬間には別の何かを感じている。だからその瞬間に留まることを相当頑張って意識しないとできないのだと思う。

 みんなが違っているのは、バリエーションを増やす仕組の結果に過ぎず、見識が狭く「独りよがり」で終わっている表現は時間を消費させるだけである。特に「世界とか人間ってこんなんでしょ」という意識が見えるものなどは、思春期ならともかく、大概の場合怒りを覚える。「世界も人間も、オレは全然わかんないぞ、調子に乗るなバカヤロウ」と思う。そういうものの中でも、際立って変わっている(と思える)ものや、純粋に好きを追求したものがあれば感動もあり得るとは思うが、なかなかそういうものには出会えない。あ、それは最近探してないからかもしれない。というか、この文章もしょうもない表現である可能性は大いにある。 

 相変らず長々と書いてしまっているが、私の文章が誰かにとって意味があるかはわからない。だが他者には当たり前のことであっても、自分の言葉で現象を記述したい私にとっては、意味があることではある。「生きてるとはどういうことで、自分は何だったのか」を知りたい。結局は「私はこうだった」ということ以外、何もわからないのかもしれないが、それでも知りたいと思う。他者に興味を持つのも、それぞれ異なる「私は今こうである」というものを、できるだけ知りたいからだろう。あなたと私は生まれて死ぬまで全ての瞬間得る経験が異なっているが、偶然この世に生まれて必ず死ぬことだけは共通している。 

 現在、地球上には76億人位いて、平均寿命は72歳位らしい。もしそれぞれの知覚や思索の情報共有ができたら、将来はAIのようなプログラムが、ひとつ上の段落にある問いに対して最大公約数的な答を出してくれるのかもしれない。それはそれで興味はあるが、やはり最大公約数でしかなく、実感はないだろうと思う。結局「生きてるとはどういうことで、自分は何だったのか」について自分で納得がいく答を知るためには、自分で表現してみるしかないのだろうなと思う。 

 というわけで、表現すること自体には意味があると思う。長い間、自分の意識がずっとそこで止まっていた気がしてならない。 前回の記事で「こだわらないことにこだわることでなんとかやってきた」みたいなことを書いたが、起こったことは何でも受け入れる態度で受け流しがちだった。現実に起きている事を全肯定などできるわけがないのに「いいんじゃないの」と自分事として判断することがなかった。それはもしかしたら、優劣をつけることや競争への嫌悪感の為かもしれない。嫌だと思うのは根底で暴力と繋がっている感じがするからだ。暴力は怖い。だが第一の理由はそんなことではなく、ただ「楽だから」そうしてきてしまったのだと思う。

 最近ご飯を炊いている時など、自分が時計を見た直後でも、今が何時だと自信を持って言えないことに気付いた。自分の行動や知覚を殆ど記憶していないようである。なぜ自分の知覚の優先順位が低くなってしまったのかと考えると、こだわらなかったからだと思う。例えば仕事ではモニタに向かって興味のない情報を眺め続けてきた。仕事中はよくあることかと思うが、異常や変化を楽に見つけるために、意識しなくてよいところは「普通」「異常なし」として見過ごすことがある。

 この「見過ごし」は、価値観の固定化や無感動にも繋がっている気がする。見過ごしている「普通」は私の経験にしか根拠のないものに過ぎないのに、見過ごしが長時間になると「自分の経験を記憶しなくてよい」という弊害になって表れてくるのではないか、という気がする。私の現実への言及に対して、妻が違和感を持ったりしていたのも、ここに原因がある気がする。受け流しが増えた結果、自分の知覚の優先順位まで下がってしまったとしたら、個人的にヤバい。 

 注意して生きているつもりでも、容易く「毎日同じことをしている」と思ってしまう。常識のつもりで思考停止を受け入れ、出来事の受け取り方の感度を低くしている。 例えば「自分が代替可能な存在である」とか自覚することは別によいのだが、自分にとって「どうでもいいこと」だけで起きている時間を満たしてはいけないのだと思った。こだわり、好きを手放してはいけないのである。違っていることを意識しつつ、こだわりを捨てないこと。 

 話が飛ぶが、こだわりといえば仏教である。仏教はこだわりを捨てることで苦痛から解放され捨てた先に悟りがあり、物語として輪廻から解脱することを目標のひとつとしている思想だと思っているのだが、経験をひとつひとつ丁寧に知覚して生きることもセットでないと、ボケる。それはそれで楽になることなのかもしれないが。違いを意識して、瞬間を慈しみ、感情も知性で判別しつつ、事象を受け入れ、よりよい行動に結びつけること。くそ難しい。だがよりよい行動って何かを考えると、自分が死んだ後を見据えてやっていくことだとは思う。 他者を大事にすることでもある。

 先に「自分の言葉で現象を記述したいという欲望がある」と書いた。私はへそ曲がりで、他者が決めたことを信用できない。例えば「1+1=2」ということについても「自分が決めたことではない」とどこかで思っている。だから計算する時も「本当にそれでいいと思ってるのか?」と疑いが湧いて、やり直したりするのである。バカだ。先人への敬意がないというか、他者が決めたことに従うのが嫌なんだと思う。だから経験した全てを自分の言葉で言いたいのだろう。それは不可能であるとはわかっているのだが、こだわりポイントなのである。友達は少ない。 

 だが最近になって、九鬼修造の現実の把握の仕方に強く惹かれている。解説してくださっている文章ですら、気を抜くと視界がぼやけてくるようで、なるほど、哲学とは素材からオリジナルな建築物なのだ…と思ったりする位で、結局理解しているわけではないが、なるほど、そうだ。という思いが強い。この現実の把握の仕方によって、現実の理解と受け入れ方がより実感をもったものになる気がして、救われる思いがしている。

 また「生きてるとはどういうことで、自分は何だったのか」を知りたい人として、経験してきた切なさを誰かと共有したいという気持ちもある。今生きている人は大体が死んだことがない筈だし、本来は死ぬ瞬間まで、全ての経験が新鮮なはずである。この切なさについてはまた改めて書きたい。映画でやろうとするのかもしれない。

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