先日『チワワちゃん』の門脇麦の演技を観てテンションが上がった妻から「映画作って撮って」と言われた。最後に映画を自主制作したのは10年以上前になる。次のきっかけは妻だろうという予感はあった。「いいよ。今年中には」と答えた。
それから妻に何をしてもらうのか、自分は何が観たいのか考えているが、まだ全然見えてこない。というか映画を作ることはおろか、自分が表現することについて考えるのも久しぶりで、ここ10年何も考えてこなかったのかと、びっくりしている始末である。現実の非日常感が強かったのかもしれない。
映画に関係あるのかどうかもわからないが、偶然目にした哲学者の本を読んだりしている。偶然というのはそこかしこで起こっていることであり、映画で切り取られる物語のことでもある。誰かを楽しませる方便になったり、何か売る時に編まれたりもしているが、物語には大なり小なり「思い通りにならない」理不尽さが必要だと思ったりする。理不尽というと大げさかもしれないが、現実は思い通りにならない。
何か辛いことが起こった時、物語がないと現実を受け入れられないところがある。物語は自分にわかる事柄から自然に作られる。何故それが現実になったのかはわからなくても、起こったことの直近の因果関係ならわかる。科学的知識や確率などと共に、物語を用いて偶然を受け入れるのだ。
「なんだこれわけわかんないよ」という時、まず自分を納得させるために物語が要る。そして状況が深刻であるほど、他人の協力が必要だったりする。協力を得るには「それが他人事ではない」と思わせるだけの、別の語りが必要であろう。
脱線するが宗教も「理不尽に向き合う方法」として始まったのではないかと思う。理不尽とは自然であり、社会での抑圧である。そして「おお、その物語いいね」という人が増えたことによって、戒律とかが生まれてくるのではないだろうか。理不尽に立ち向かうにせよ現実逃避するにせよ、やっぱり物語が要る。
前に『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』を観ていて、タランティーノの映画が面白いのは個人の欲望を肯定してるからかなと思った。他人を傷付けないとか、主張に持続可能性があるかなどは後々の話で、ある理不尽に対して復讐の形で「こうなれバカヤロウ」と全力で突き付ける力強さが魅力のひとつなのである。
欲望に折合を付ける時、西洋人の方が真っ当に人間の矛盾と向き合ってきたんじゃないかと思った。欲望には破壊衝動や生きることに反するものもあるし、楽しいことは体に悪いことの方が多い。西洋人は一時期、陰陽とか禅とか東洋のオリエンタリズムに何となく感心してたようなイメージがあるが、前提として個人の欲望を肯定してる時点で直接的で強い。羨ましくもある。
欲望は人の数だけあり、その全てを理解することは不可能だ。だが自分は何をしたいのか伝えることは評価されると思いたい。誰かに評価されたいわけではないが、せめて自分の欲望くらいは理解して、できるだけ正直に描写できたらと思う。