私が何かと後ろ向きなのは、無限に分岐していく先を見ていられないからだと思う。情報を処理しきれないし、見ているだけで終わってしまう。だからせめて自分の根本を見定めようと来し方の流れに目を凝らしているのだろう。それゆえに自分が言う「これでいいのだ」という言葉が好きである。安心するからである。
大人は「わからなくても平気なこと」が多い。どうせ理解できないと思ってること、わからなくても仕方がないと思えること、わかっていると決めつけていることが子供より多い。だがわからないままでいると自分や周囲に害を成すこともある。だから他者が言う「これでいいのだ」という言葉が嫌いである。警戒するからである。
自分が使うのがよくて他者が使うのが嫌だなんてズルいようだが、他者に対して「これでいいのだ」と言うことは滅多にない。主に自分がした行動や判断に対して使われる言葉だ。それが自然な感想なのか、自分を納得させる方便なのかは大きな違いである。方便として言い訳する時の自分は、とても格好悪いと思う。事実を無視しているからである。
信頼や愛情など他者にとっては大事に違いないものを、私は素直に認められないことが多い気がする。わざと難しく考えることで、態度や行動を保留する理由や猶予を作っている。感情に関わることは元々言語化が難しいものだが、感情から目をそらすのにも言葉というのは便利だ。わざと難しく考えようとするのは、自分が感じないでいるためでもある。どうしてそうなったのだろうか。
前にも書いたことがあるが、私はとても大きな胎児で帝王切開で生まれた。最初からそうしてくれたらよかったのだが、運悪く不慣れな医者の不手際にあたって自然分娩を強いられ、長時間に渡り陣痛促進剤を投与されまくった結果、母子共に危険状態になった。父は医者にキレて手術の同意書に勝手に条項を書き足してサインしたらしいが、基本的には何もできなかった。私は閉所恐怖症になった。
父は家で晩酌する習慣があり、酔っぱらっては子供をからかった。私が3~4歳の頃は、よくふざけて座布団で押さえつけられギャアギャア泣いていたのを覚えている。死の恐怖でパニックになりながら、父を絶対に許さないと思った。閉所恐怖症はもう少し大きくなってから、対処法を覚えた。お泊り会で友達と遊んでいて、何枚も布団をかぶせられ上に乗られた時「これはいつか終わるのだから大丈夫だ」と自分に言い聞かせ体の力を抜いた。抵抗すると相手は面白がってやめない。布団から出てきた私は薄ら笑いを浮かべて「暑い暑い」と言った。
7歳頃の年末に祖父の家に親戚が集まり酒盛りをしていた時、酔っぱらった祖父を布団まで連れていく役目を任されたことがある。私は肥満体で祖父は痩せていたので大丈夫だろうと思われたのである。結果一緒に転んで祖父は廊下で頭を打った。肥満児でも完全に脱力した大人を支えきれなかったのだ。大事には至らなかったが、父からは「お前はじいちゃんの信頼を失ったんだからな」と言われた。
高校生になると私も酒を飲むようになる。田舎だからか時代か、親も教師も飲酒に寛容なところがあり、クラス飲み、部活飲み等が誰かの家とか居酒屋で行われていた。クリスマスに友人の家に泊まると嘘をつき親の知らない先輩の家に集まったことがある。予定では友人の家に電話をかけ、行けなくなった旨を伝える筈が忘れてしまった。心配した友人の親が私の家にも連絡し、翌日しこたま怒られた。やはり父には「お前は信頼を失った」と言われたが、「お前の信頼なんか要らない」と思った。
閉所恐怖症の対処で覚えた自分の感情から目をそらすこと。それは必要なことだったのかもしれないが、私が嘘のふるまいを身に付けていく核になった。父には愛憎どちらもあったが、早くに信頼を疑ったため父子関係についても長らく歪んだ見方をしていたし、解消されないまま終わった。未だに一旦自分の感情を保留する癖は残っているし、酒に酔っては信頼を否定しがちな大人になった。自分に発したダメな「これでいいのだ」に洗脳され、言葉の裏にある親愛の情が見えなかったのである。
先ず言葉を優先するというのは、他者や自分の感情を認識していながら向き合わないということだ。感情を揺さぶる出来事があったこと、すなわち生きていたことを否定する不自然な行為である。きっと私は3歳の頃からずっと絶叫したくてたまらないのだと思う。タガが外れて狂ってしまうのが怖いから、言葉で自分を押さえつけて保ってきたのかもしれない。昔に比べたらだいぶ素直になってきたようだが、もっと自分の感情を認めて「これでいいのだ」と自然に思えるようになりたいものである。