誰にでもあることだと思うが、意識の状態には色んなモードがある。何かの作業や鑑賞に集中する時、他者とやりとりする時、意識を自由に遊ばせておく時など、その時々の優先順位やエネルギー消費との兼ね合いで、モードは半自動的に切り替わっている。私の経験上、意識のモードのデフォルト(初期設定)は、意識を遊ばせておく状態だと思う。転んだりぶつかったりしないといった、体を動かす上での必要最低限の安全はほぼ無意識に任せ、意識の大半が向かう先が自分の内外問わず自由に選べる状態である。半自動運転である。
この状態の時、意識が向かう対象は他者も含めてフラットに並べられる。もちろん染み付いた見方の影響はあるので、対象自体が持つ意識への影響力にも差があるし、知識量によって解像度も違うのだが、「外側から観察できるもの限定」という意味ではフラットなのであり、実際に他者の実態がどうかとか、現在進行形で他者の意識がどのようになっているかなどは探らない。自分が勝手に観察し、勝手に想像している状態である。これが最も省エネでストレスがない状態なのだと思っている。
何か問題がある時は意識が対策に動くので、デフォルトではいられない。誰かとやりとりする時は、対象の内面まで想像するタスクが増えるので、やはりデフォルトではいられない。他者の生活も含む問題の解決策を考える時などは、この両方をやっているわけである。特に目的もなく一人で外を歩いている時はデフォルトだ。この時に周辺視野に入ったり、目を引かれて見る他者は基本的には情報であり景色、モブである。自分も他者にとってのモブだと思うから他者の目も気にならないし、知人との遭遇も想定していないので気付き難い。何か興味を引かれるものがあって初めて意識が向き、観察や鑑賞モードに変わる。写真を撮る作業モードや、やりとりするモードに移り、より詳細な実態や内面を想像し始めることもある。
なんらかの志を持ち精力的な人は、長時間特定のことに集中していられるのかもしれないが、私は出来るだけ意識を遊ばせるデフォルトでいたい。遠い未来を考えるのも好きではないし、今ここで意識が向いたことをしていたいと思う。そしてスリープモードに入る(眠る)前には今日の家族、今日の食事、今日の健康など、今日の時間の使い方を思い、何事もない今日を終え、無事一日死に近づいたことに安心したい。時には交わり、モードを変えることはあっても、安心してデフォルトでいられるのがよいと思う。心配事や悩みは出来るだけ手放し、大切な人とも時にはデフォルトのままで一緒にいられるような生活が望ましい。
現在の社会は自然(現在の事実)から遠く、過去に起きた偶然を基にした一部の利権者に都合のよい建前(願望)で成り立っていて、「こうあるべし」の押し付けや、古い「常識」に固執する者たちによる、意識を遊ばせる自由の阻害に溢れている。また女性は男性からの「暴力」を警戒しなければならない状況なので、外ではデフォルトでいられないという問題もある。がんばらなくてもいいということ、これはどう生きるかという人間的な志に関する、私が思う理想の状態である。もし誰もが平和に自然に生きられるなら志は要らない。だがそうなっていない以上、権力者の願望や暴力を排除し、誰もがモブキャラとして平和に行き交う「がんばらなくてもいい状態」を目指さなければならない。先に「なんらかの志を持ち」と書いたが、がんばらなくても生きられる状態を目指すというのが、唯一の私の志なのかもしれない。
他者と協力する中で、自分にとって今正しいと思うことの選択が自分の志を形成する。自分にとっての正しさを持つには何らかの指針が必要で、指針は事実を知ることで自ずと出来てくる。関わる集団において明らかに自分の志に反することを強制されているなら、がんばって従う必要はないし、我慢した結果心が弱ってしまったら、やめて休むのが正しい。現在の災厄において、この国の政治家は国民の命を守る気がないことが露呈してしまったわけで、建前より事実を優先する新しい社会にしていかないと命が危ない。がんばらなくても生きられるようにがんばっていこうと思う。(ちなみに昔のブログでは「よくわからんががんばろう」と最後に一文添えていて、当時流行っていたスタイルの真似であり、超恥ずかしい)