社会には建前がある。建前は規則を生み、規則は空気を生む。「誰かを傷つけてはいけない」とか、集まること自体を脅かさない為の規則以外は、本来どう解釈してもよいし変えてもよいと思う。学術的な規則と同列に語るのはおかしいが、私は1足す1は2とするという規則すら「私が決めたことではないが、そういうことにしてやってもよい」と思う位のバカだったので、規則や建前、宿題も本当に嫌いだった。今回も前回に引き続き、社会や参加者のふるまいについての話である。わざわざ言語化する必要もないことだと思われるかもしれないが、私は規則についても押しなべて交通信号くらいの順守意識しかないし、集団においては空気が読めないし、読まなくてもよいと思うし、できれば読みたくないとも思っているので、できるだけ基本から自分の言葉で言語化してみないと、納得できないのである。バカであるからして。
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社会は仕組に過ぎず、事実に即して更新しないと機能不全を起こすことは、繰り返し思い出さないと忘れてしまうのかもしれない。これは前にも書いたが、自分の経験から高をくくるようになり、事実をそのまま見続けることができなくなるからだ。自分の行動の根底には「自分にとっての現実」しかなく、現実と事実は(重なる部分はあるかもしれないが)必ず違っていることをつい忘れてしまう。私が何か物を作ることがよいと思ったり、学者としての視点を持てたらよいと思うのは、作家も学者も事実と向き合うものだからだ。事実と向き合うことは自分の現実を客観視することであり、自分の矮小さを知ることでエゴを小さくする効果もある。前回書いたような権力至上主義に付け込まれない為にも、ただ自然に生きようとするだけの、物でいる方がよい。世界を異なる角度から色々な深さで知ることでエゴは小さくなっていく。もし消されることに抵抗するエゴが有るなら、これまでの人生で外部から「刷り込まれた呪い」に由来するはずである。それが社会的な自己同一性に関わる価値観の場合は、その否定や消去に抵抗を感じるだろう。だが「刷り込みじゃ」と繰り返し意識することで相対化され、抵抗感は薄れていく(どうでもよくなっていく)だろう。意識する方法は物を作る行為、こうやって文章を書くことでもよい(結局自分の現実だけに自己完結しがちだが、他者に読まれることで変わり得る)。「事実を見るんじゃ」と自分の現実を疑うだけでもよいのかもしれない。ともあれ無意味な拘りはない方が生きやすいし、その分楽しいのは経験上間違いない。私の経験に過ぎないのではあるが。
現在は人の活動が生態系を壊しまくっている人新世であり、社会の在り方は軽んじられない(間違えたら滅ぶ)が、社会は所詮は建前の集合に過ぎない。大きな建前を共有しながら、各自それに準じた建前を用意して持ち寄りやりとりしている。集団でのふるまいは「建前に沿ってらしく演じること」だ。建前に合わせて「私」が用意され、場に応じてふるまいを変えている。建前の基準は人工的に生じ、ふるまいを洗練と野暮に分ける。この基準の作られ方というのも興味深いもので、最近はコンヴァージェンスという知見がヒントになりそうだと思っているが、ここで書くのはもっと基本的な、権力などに関わる話である。ふるまいは見た目に関わるものだから、外見も人工的に優劣がつけられる。社会的な優劣をつけることで規則は娯楽にも遠用されるし、嘘と分かった上で楽しむ癒しも存在する。やはり虚業は人間社会には必要なのだろうとは思う。建前なんて現実以上に簡単に変えられるものだし、人工的な基準や優劣は生物的には全く意味がない。そういう意味ではくだらない、俗っぽいと切り捨てたくもなるが、権力者は自分にとって都合のよい嘘をさも事実かのように、建前の重視こそが人生であるかのように、社会的な優劣が何より重要であるかのように、全力で人々を型にはめようとしてくるのであり、実際まんまとはまった「いい人」が多数存在しているわけである。事実を無視する数がこのままでは地球に住めなくなる程多くなっているわけで、夢を見させられながら死ぬことに抵抗し、事実を見ながら自然に生きる人が増えないとやばいのであり、危機感を持つわけである。映画『マトリックス』を思い出す。懐かしい映画を連想するなんて、我ながら素朴な文章である。
権力ゲーム然り、規則がある以上は社会をゲームと捉えることもできる。ルールを把握した参加者同士でやり合う。これは意識が生まれる前、参加しないと生きていけない状態から始まっており、私も強制的に参加させられている。最初は受け身で従っているが、ルールを持ち込むこともできるし、ルールを決めたのも人だということを知り、改めて参加しますか?降りますか?の選択に直面する。参加しますを選んだ場合、どう参加しますか?が問われる。既存のルールに従うか、変えようとするのか。どう従うのか、どう変えようとするのか、選択の集積がその人のキャラクターになる。ゲームというからには遊ぶこともできるが、そこでふざけたりするにはルールをよく理解していなければならないのはもちろん、知識が必要となる。もちろんゲームとしてみる必要はない。生きているだけで楽しいからする必要がない場合もあるし、死なないようにするだけで必死で遊ぶ余裕自体ない時もある。私はゲーム的視点による「今ここからの乖離」が起こりやすいので、あまりしたくない。物事をありのままに見る前に、ゲームに関連した記号的な情報として処理してしまう。参加してないつもりでも「自分の現実」という二重写しの世界を生きているには違いないので、せめて他者が作った現実で遊ぶより、各自の現実のすり合わせや、新しい現実の提示という遊びができたらとは思う。他者の現実認識を変えようとする意識の表れも表現のひとつである。SNSは時間を埋める無料コンテンツという意識が強いと思うが、災害や時事問題についての意識的な情報収集だけでなく、他者の表現を見るだけで自分の経験にない情報に触れられる場でもある。個人的な問題解決を図る人もいるし、自らの社会的な存在感を増そうと発信する人も、ストレス発散で愚痴を吐き出す人もいる。大喜利の場にもなる。有限な時間をどれだけ自分にとって有意味にするかは、他者の存在が影響している。そういう意味でも、社会における他者の存在は大きい。
ネットでは正誤性はさておき、発信者の意識のフィルターを通過した結果解釈可能になった無数の情報が寄せられ、選別された情報の集合により個性的な場が発生する。集合する場は常に求められているから、アクセスし易い場を作ることは今後も評価されるだろう。物理的にはサーバー上にしか存在しない仮想空間を現実的な場所と感じる理由は、参加者が「それぞれの現実」を情報として持ち込んでくるからだ。一度生じた場はなかなか消えない。更新は利用者が消えない限りは起こり得る。SNSが無料の暇つぶしコンテンツであると共に、個人のつながりと感じられるのはその為だ。他者の存在を意識した時、発信された内容より発信した人の方に興味が湧くことも大いにあるだろう。他者の視点や解釈を知り、読み解ける情報が増えることで、事実を見る解像度が上がる。人の歴史は現状の積み重ねだが、サーバーに情報が保存されるようになる前と後では参照可能性に大きな隔たりがある。参照可能性はネットの社会的な価値そのものであり、匿名的な参加だとしても、名もなき者の一人として、その価値を健全なものとして保たねばならない。近年の民主化革命も陰謀論も、ネットを通じて起きている現象だ。先に虚業は人間社会に必要と書いたが、事実の顔をした嘘は、政治的にも人々をコントロールする手法として長年に渡り利用されているのであり、ネットはそれを支える強力なツールでもある。一度滅んだ誤った価値観もネットの参照可能性の高さから、いつまた復活してくるかわかったものではない。
現在の社会は願望を事実と混同するだけでなく、政治家も含め「それが私の世界だ」と公言して恥じない者も多い。自然破壊の影響か、単に数が増え過ぎたのか、人々を束ねる建前は破綻してしまった。そして自分の世界にそぐわないものを攻撃している。権力で、武力で、暴力で自分の現実を事実にしようとするのが、破綻した社会における常識だとでもいうのか。まるで『北斗の拳』の世界である。ケンシロウも元は普通の高校生だったのにあんなことに。事実を無視し続けていたら自分たちも巻き込まれて滅んでしまうので、自分の意思で知ることができない人には、事実を見てもらわなければならない。だが頭ごなしに信念を否定されて納得する人はいない。陰謀論にはまっている人に、のっけから科学的な証拠を提示し、合理的な議論を求めてもうまくいかない。まずは何が起こるかわからない不安について共感を示し、その点では同じだと思ってもらうことからなのだろう。同じことは依存症についても言えるのかもしれない。共感を示す方法は、考えてみると難しい。説得のために演じてると思われたらアウトだし、わざとらしさは不信感を呼び起こす。結局は正直に居てみせるしかないのかもしれない。混乱状態は日常的に誰にも起こっている。制御できない自然に向き合うことで起こる不安の共有から、変えられる現実や社会について一緒に考えていこうと。そして徐々に信頼を得ていくようなアプローチしかないのだと思う。意見の異なる者同士の対話に有効という意味では、社会的信頼にも価値はあるとはいえる。自然であること(間違うこと、失敗すること。全員違っていること)も公然と受け入れられない限り、事実に即した社会の実現は無理だ。私に欠けているものは社会的信頼であり、説得力である。自分の現実と事実を混同したまま正義や理想に酔ってる人を目にすると、改めて私には何もできないという気持ちも湧いてくるが、とりあえず自分の現実は正直に書いておこうとは思う。
幼少時の家族との関係もあり、集団で信用を稼ぐこと、信頼されることに私は全く興味が持てなかったのだが、社会に参加しないと生きていけないとは思っていた。終日赤子の世話をしたり、火の番をしたり、タバコ屋や銭湯の番台に座っていたりするが理想だったが、若い時は自分で何か始めないといけないと思っていた。社会での自己実現に興味がないので、他者の欲望の実現が仕事になった。創造する人が別にいて、その人が作りたいものを現実化する為に現場で手を動かす。自分の欲望(とまでも言えないようなものだが)が後回しにされた為か元来の酒乱が悪化、うっかり調子に乗って飲み過ぎてしまい、度々周囲からの信用・信頼を反故にしてきた。それを肯定するつもりはないが、自分の社会的価値が無に帰したと思うことで、責任からの開放感を得てきたのも正直なところではある。社会的価値に固執すると「こうあらねばならない」に縛られ窮屈だし、余計な不安も生まれて苦しい。飲酒による解放は一時的な対処に過ぎないのに、自分の中には歯止めがなかった。根本的な解決を図れないまま社会的価値の反故を繰り返してきたことが、自分を社会のクズだと思う所以である。要は「社会における自分」を自分で決めてやり通すことができなかったのだ。最初から「何もやりたくない」と主張して生きていたら幾分マシだったろうに、なんだか他者のせいにばかりして生きてきたように思う。社会のクズということを否定的に捉えられないのも自己愛の表れかもしれない。だが自分の欲望の為に他者を傷つけてよしとする人は純粋な害だと思っているので、なんとかしなきゃと思っているクズではある。
現在は家族も出来たし、環境も変わった。未だにうっかり酔っぱらって妻に怒られたりもするが、家族からの信頼を以前よりは大事にするようになった。以前は一人で好きなことをしている時には「好きなことをしていて楽しい気持ち」と「家族が幸せでいてほしい気持ち」がそれぞれ独立してあったのが、今では「家族が幸せでないと好きなことをしていても楽しくない」という風に変わった。綺麗事ではなく、家人が今幸せでなければいくら自分が好きなことしてても楽しくない。依存とも言えるのかもしれないが、その対象を増やしていければ少しはマシな人間になれるかなと思ったりはする。そう思える対象が多いほど、情が深い人間と言えるのかもしれないし、愛というのはそういうことなのかもしれない。ともあれ大切な人との関係を守れるくらいの信頼、生活していく為に協力している人たちからの信用さえあれば、それ以外の社会的評価は要らない。生物的な欲望や複雑過ぎて理解しきれない事実、問いとしての表現など、自然や「自然と作為の境界」に意識を向けていたい。その意識さえあれば基本的に楽しく生きていけるのだと思っていたが、なんてことでしょう、社会が終わってしまいそうです。それで社会について思うことを書いてみたわけである。
私は感じたり思ったから書くのであって、それが正しいからでも優れてると思うからでもない。その意味で私の書くものは生理的なものだ。一人でできる分、遠慮なくやれてよい。客観性をなくし過ぎて誰にも読まれないかもしれないが、それでもよい。誰かを傷つけてしまうことは本意ではないが、やはりそれでもよい。内心や内部構造や問題や、外側から見えないことを他者と共有できると少し楽になる。自分のそれらを知られ得る状態にするだけで、確かにあると思えた分だけ、楽になる。理解されなくても知られるだけでよく、それは逆に理解しなくても「知るだけで変わることがある」と知っているからだ。知ると想像する。気が向いたら、知ったことが事実と思える位には想像する。出来ることだったら、自分でもやってみると少しわかる。わかる気がする。自分の現実を晒すことで気持ちを楽にし、不確かな影響や間接的な変化をうっすら期待しているのが私の表現だ。要は自分本位で、最初から他者を喜ばせようなどとは思っていないのであり、結果的に喜ばせられたら驚く。他者を喜ばせようとする時は、もっと容易くわかり得る言葉や行動で喜ぶことをする。でもそれは自分でもどこかで安易だと思っているので、つい他者の現実を想像してみせたりするが、概ねそれは違っているし望まれてもおらず、また立ち入ったことでもあるのであまりしない。私に明らかに他者を喜ばせられる表現が沢山できたらどんなによかっただろう。せめて自分の現実をできるだけ正直に表に出しつつ楽しく生きてみせることで、間違ってもいいし正直でいてもいいんだなと思ってくれる人が増えたら嬉しい。長文読んでくれた方、有難うございました。生き抜いていきましょう。