眠る時、目を閉じると映画が始まる。まずは寝る姿勢が心地いいかどうか、自分の体や周囲の状態を確認して、整ったらもうすぐ始まる。聞こえている音の出どころを想像するだけで意識が体から離れる。夢は記憶の取捨選択が行われている時に見られる映像だというが、毎晩勝手に行われているなあと思う。その内に、眠っている間に見ている映像を現実として認識する者が現れ、眠っていく私と混じり合い入れ替わっていく。後は楽しくドキドキワクワクする世界に入って楽しむ。
私は不眠に悩まされたことがない。寝ている時の自分を観察しているだけで完全に眠ってしまう。大概は暗転して気付けば朝なのだが、入眠時に覚醒を意識していると幻聴や幻影が見えて面白い。知らないおばちゃんが喋っているなあ、と思ったり、雑誌をめくって目に入った文章を読んでいると、ああ、これは私が喋っているんだとか、私が雑誌の文章を創作してるんだなあと気付く。すごいなあ、面白いなあと思って目が覚めて記録しようとしても、何が面白かったのか全くわからない。
夢の話がつまらない、というのはそういうことなのだと思う。先日、妻の高校の同級生一家と井の頭の動物園に行った。何度も施設内の階段を上り下りしては見守る両親に手を振るルーティンを繰り返す、1歳数か月の娘さんから目が離せず、とても面白かった。動物と子供が沢山いて、触れ合えるのが公園なのだと再発見した。
三鷹市から自宅のある高円寺まで妻と歩いて帰る途中、妻が通った高校にお邪魔して中を勝手に散歩させてもらった。用のない者の立ち入りを禁じます、というのは学校の門によく書かれているが、考えてみれば「懐かしむ為」というのも立派な用だと思う。入ってみると銀杏並木の下で銀杏を拾うババアとか、空いてるグランドで子供を遊ばせている人達もいたので猶更安心した。
夕方の学校といえば吹奏楽部の練習の音などが郷愁を誘うものだが、日曜だったのでそれはなかった。だがラグビー部が練習をしていて、「マイボ!」「ヤーボ!」の掛け声に個人的に懐かしく思った。妻は当時は煙草ばかり吸っていたので見つかって停学になった場所など案内してもらいながら、知らない学校を懐かしく見た。
その日は舞台俳優の妻の稽古があったので、帰宅後ひとりになった。私は何も用事がなかったので、SNSなど開いていたのだが、目を閉じて文章を書いてみた。
「どうでもいい話だが私はお腹が空いていて、酒を飲んでいる。芝居の稽古に出かけた妻を家で待っている。目を閉じて見える景色に沈んでいくと、今日出かけた知らない場所の敷地内である。建物が両側にずっとせりだしているのが見える。
建物の中には誰かがいて、何かをしているが私には関係がなく、地面に落ちた金木犀の花が雨に打たれているのを見て爽やかな気分である。妻がうろうろしている。それを追っていく私に見えるのは何か。グラウンドの向こうに花火が見える。安易だなあと思うが、カラフルで綺麗だ。見たいものを見ている。
生きていることの祝福だと安易に思う。まだここにふたりでいて、祝福されている。私は酒が入っているので、白ワインなど所望する。夢の中ではグラスワインなどすぐに出てくる。飲み干しても花火は見ている妻の顔を照らし続けていて、これはまだ起こり続けているのだと思う。」
上記は、目を閉じて見えた映像を打った文章の打ち間違いを修正したものである。そもそもブラインドタッチとは、キーボードを見ないで文字入力をすることだが、別の意味で何も見ないで打ってみる、ということを前の日にしていたので暇つぶしに再度やってみたのだった。妻の言葉で言うと「エモい」と思った。
夢を見ている時のように考えながら目の前に見たい映像が展開していく。普段目を開けていることが、どれだけ勝手に補正を加えているのかよくわかった。子供の頃によくしていた想像や妄想というものは、こんな風にしていたんだと思った。そして思い出したのは、以前基金訓練の同級生に退行催眠の使い手がいて、その人の家で前世の記憶を引き出してもらった経験だった。
結論から言うとその人の家で今寝ている私という意識から離れられず、でもその人はいい人だったので何らかの物語を紡がねばならないという焦りから「崖から落ちて死んだ猿」の話をした。起きている時に目を閉じて書くというやり方は簡単なのだが、書かれたものを他者にとって面白いものにするには、編集者的な意識が必要である。その猿はメスだったのだが、これだけはおや、と思った。
ただ、目を閉じて書く、というやり方では幾らでも書ける。
「もし目をつむってかけたら、ほんとうにぶらいんどたっちである。かけたものとして、かけているものとしてかいてみよう。よるのこうそくどうろをひとりではしっている。じてんしゃであるどこにむかうのかといえば、いいところだ。
なぜひとりなのかといえば、まだひとりしかこんとろーるできないからだだがだんだんすきなようにうごかせるようになるはしっているわたしはどんなすがたをしているだろうかせっかくなのですてきなすがたにしてやろうそのじてんでわたしではなくなるわたしはわたしのいないせかいが好きなのであるほかにくるまははしっていない
彼女を傷付けるものはなにもないのであるああ、わたしはおんなだったのだあさやけがみえてくるいや、まだみえてこないくらいままのよるをじてんしゃはすすんでいくうえからはしごがおりてくるヘリコプターであるはしごはなぜかかたいしっかりしたものであぶねえなとおもうがじてんしゃのそくどにあわせてくれるたちこぎのしせいからかたてをはしごにのばしつかむさよならじてんしゃはなれたじてんしゃはそのまましゃーっとはしっていくへりのなかにむかってはしごをのぼっていくへりもずっとのぼっていくああ、やまだったのだやまのなかをはしるどうろだったのだなあと思うやまはくらいが、しょうわのマンションがみえてきてなつかしいかんじがするのでおろしてもらうことにする屋上の床は緑色である」
大変読み難い。私を女性として設定する想像が好きなようである。
「さて、女性になってみて思うことは
もっと自分をすきになりたいということだった
外面を自分で確認して、より好ましいと思える姿にする
自己満足を求めているのだと知った
化粧やお洒落は苦手なままだったが
より自分が好きになれる動き方を意識している内に
ただただ穏やかで優しい私になっていった
だいぶ自己満足もできてきたある日のこと
私は夕方から酒を飲んでいた
仕事も一区切りついて、明日は休みで予定もない
長雨も今朝には止んでおり、久々に綺麗な西日が部屋を明るく照らしていた
気分がよかったので早々にお気に入りの麦酒を口にして
窓から見える町並みを眺めながら
景色のよい部屋に住んでいて幸せだなあと思っていた
テーブルに置いてあった朝刊の新聞の見出しが目に飛び込んできた」
あとは何を書くかという具体的なヒントを用意してやれば、何か書けそうである。だが、今のままではただの暇つぶしである。子供の頃に祖母に語った「夢の話」を思い出す。戦隊もののヒーロー達が巨大な森で怪人の攻撃を受け如何に対処したか。その時は目は開いていたが、語る相手は何を言っても喜んでくれるという確信があったので、安心して現実を無視して想像する映像の語りに集中していたのだった。
出力の最終形としては、結局素面で大人の自分の目を入れる。なぜなら他者を喜ばせたいと思うので、独りよがりになってはいけないと思うからだ。知性というやつが必要になる。だが想像の段階ではそういった検閲はなしで自由に遊べばいいのだと改めて思う。社会不適合者、それが私である。場末で目にするアル中がやけに楽しそうな時、私と同じかなあと思ったりもする。今、猫のオシッコくさいと思う私は、どこにいるのだろうか。もちろん家で妻を待っているのであるが、目を閉じると見える景色は幾らでも変わってくるのであった。