よくあることを特別なことと捉えるのは、若さの特徴のひとつである。凄いことが自分に起きているという興奮、その浪漫に酔えるのが若さだ。それが誰にでもいつでも起こり得ることだと知ると、興奮していたことが恥ずかしくなったりする。無知による思い込みだ、なんてうぶだったのかと。だがナイーブであること自体は悪いものではないと思う。生を楽しんでいる状態だし、本当に特別な凄いことに直面している可能性もゼロではないだろう。他者に感動の共有を強要しなければ問題はない。
流行歌に違和感を持ち始めたのは、米津玄師が売れ始めた頃からだろうか。感情は個別のものだしどう表しても自由である。でも親しいものとの別れというありふれたことを、特別なことのように表現されていて気になった。葬式を盛り上げる泣き屋みたいなものなのだろうかと思った。その後流行歌を聴く度におや、と思うようになった。意図せず他者を傷つけてしまったり、二人はもう前の関係に戻れないことを悲しんでいる。よくある。それを世界の終わりみたいに嘆き、でも前向きに生きていく私すごくない?と言われている気がする時、心が無になるし顔も無になる。
ちょっと待て、と振り返ってみる。今まで自分が聴いてきた楽曲にもナイーブなものは沢山あった。失恋を嘆く歌など万葉集が編まれた頃から人気である。でもよくあることは、よくあることとして表現されてなかったっけ?ベタをやる時はベタですよという演出があった気がするし、ナイーブさを晒す恥ずかしさがあったような気がする。昔も今もわかりやすさは良いこととされているようだが、どちらがよいというものでもない。だがナイーブさの表し方が大きく違っているのかなとおじさんは思う。
空気を読むことに長けると、他者を傷付けたり傷付けられたりするのは交通事故レベルの重要事になるのかもしれない。また正解主義というか、間違うこと=死のように恐れるというのも、社会がうまくいってない不安から来るのかもしれない。理不尽は誰にでも起こり得るし起きた理由もない、そういう世界に生きているとは思うが、人の力で変えられるところはないか諦めずに考えることはできる。見たいものだけ見る傾向は誰にでもあるが、見たくないものを見た時に動揺するようではマズくないかと思う。100%余計なお世話だし、そういうことが書きたいわけでもないのだけど。
今年は父の七回忌で、地元では曽祖父の33回忌と一緒に法事をした。33回忌って。いつ終わるんだ。当然のように私はコロナで不参加ということにしといたよという母からの連絡に違和感を持ちつつ、父の遺影の前に酒を供えて線香をあげた。そういうことをすると、遺影の写真が笑っているように見えるから面白い。それから久しぶりに会う妻の共演者が遊びに来たのだが、コロナで実家に帰れなくなるかもと思い落ち込んだという話を聞き、確かに地元に帰れなくなる可能性がゼロではなくなった時、さみしさを感じたなあと思い出した。それでナイーブさについて考えたのだと思う。
ナイーブに感じている時は単純な世界に没入している状態でもある。私も一人遊びをしている時など感じやすくなっているのだろう、気持ち悪いツイートをしたりもする。おじさんのナイーブさは、これまで自分がしたことのない、自分にとっての新しいことを考えている時に発揮される。例えば食について、行きつけになりつつあるスパイスショップには羊の冷凍肉が売っている。羊肉の味は代えがたく美味い。骨付き肉が綺麗なダイス状になっているのを見ると、機械的に処理された畜肉だなと思う。ラムは子羊である。子羊はかわいい。豚も牛も然り。かわいいけど食べるので殺す。美味しいからという理由で、かわいい生物を業者に作らせた上で殺させていていいのだろうかと思う。命は殺し殺され循環しているという考えと、美味しく食べる為に命を管理する人間の不自然さなどを思っている時、私はナイーブである。殺さなくても美味しさを感じる方法はないのか、美味しくなくても幸せに生きられないか。矛盾を感じつつも今日も美味しく頂くのだが、今後の課題として持ち続けているとは思う。
また性について、性欲の刺激から離れたいと思うことが多い。他者と混ざり合うことはよいことだと思うし、交配も自然ならよいのだが、今の社会では金を使わせる為に性欲を刺激するフィクションが多過ぎるし、男性による女性への性暴力も横行している。他者の幸福を邪魔してはいけない。傷付けないようにするなら気持ち良さを追求してもいい、というのもわからなくもないが、そもそも他者に行動を握られていては何かと不自由である。刺激は見ないことで避けられるし、見ても関係ないと思えば刺激はされない。だが私が女性ホルモンを摂取したらどうなるだろう。生物の体も心も、本当に僅かな量の化学物質で変化する。知人の中には性転換した男性も居る。生殖機能が要らなくなったら、女性化してもいいのではないか。男性ホルモン、要るか?と思う時、私はナイーブである。妻と二人で穏やかに子供を育てる姿を想像する。自分からいい匂いがしてきて、肌も綺麗になったら嬉しいだろうなと思う。ナイーブかもしれないが、デリカシーはないなとも思う。
そんな想像をしてはいるが、人間関係の基本的な部分でナイーブであることを良しとする価値観が流行っているのを見ると不安になる。容易く利用されたり傷付いて死んでしまったりする人が増えてしまうのではないか。権力を否定する人間の在り方としてもあまりに弱過ぎる。もっと失敗を恐れず異なるもの同士協力できないと、逆に否定され殺されてしまうのではないか。殺されるのは嫌だ。そんなことを思いながら今日もラム肉の溶け込んだカレーを食べる。きっと美味しいだろうと思う。