私の精神構造は単純だと言われる。平たく言えばバカなのだが、他者を知る程に平均よりも単純だと自分でも思う。何事も安易に納得するし悩まない。例えば「人と違っていれば生きていける」と若い頃は本気で思っていたし「理解も共感も要らない。感動があれば生きていける」というのは今でも思っている。他者から提示される正解を疑うこと、言葉の力は信じても言葉しか使わない人は信じないこと、といった社会生活の知恵がなければ、とっくにボロボロになっていたと思う。生きてきた年月相応に汚れてはいるが、まだ平気で生きている。
先日知人の舞踏家の遺品鑑定をSNSで募ったご縁から、井桁さんの個展に出向き展示されていた人形の一つを買った。『花の記憶』という題。手折った一輪の花を香っている表情をした少女/少年の胸はほんのりピンクに色付いている。その手に花はない。体は不定形な塊そのもので、頭部と片腕だけが写実的にある。題通りの目には見えない内的な状態が表現されていると思った。心に起こった状態を、目見える形にしてくれている。すげえ、と思った。井桁さんは実在の舞踏家をモデルに等身大の人形も作成されている。彼女が舞踏家から感じたものを物理的な物に落とし込んでいてそちらも圧倒される。いつか生で見てみたい。
今回家に来た陶の人形は手の平サイズである。購入に踏み切ったのは作品の素晴らしさもあったが、生まれてすぐ死んでしまった、人生で最高に素敵だった子供のことを連想したからというのもある。好と書いて「すみ」という名前で、2017年8月29日に妻のお腹から出てきたけど、外では生きられなかった娘である。展示会で初対面の井桁さんに「顔が似ていますね」と言われた。こんなに綺麗な人形なのに、既に娘のことが頭にあった私は「はい」と答えてしまった。
人形は娘の愛称の「すーちゃん」と呼ばれている。すーちゃんは他の「愛でられるものたち」の一員として、うちで既に所帯染みている。毎日移動したり、抱えられたり、褒められたりしている。作品の素晴らしさを他の愛でられるものたちも理解しているのかわからないが、美意識も大体は共有してるから大丈夫だろう。目に見えない状態が表現されていることは改めて意識して見ないと見えないが、今こうして家にいるのもかわいい。
私は自然な表現が好きである。混沌に身を任せ、状態の変化を意識しながら「よきところ」を形にするのが自然な表現だと思う。ただし変化する自然を不自然に固定する行為である以上、他者を傷付ける可能性もある。私はこの人形に傷つけられた訳ではないが、表現の素晴らしさの他、娘の記憶ゆえ猶更刺さった。
『花の記憶』はうちですーちゃんになった。普段線香と水をあげているすーちゃんは既に透明で自由な存在なのだが、この人形のことも気に入っているようである。だが展示会でこの作品を目にした他の人たちにとっては当然すーちゃんではなく、それぞれ想起するものがあったはずだ。やっぱり表現はいいものだと単純な私は思う。