今日は東日本大震災から9年ですね。
私の所属する政府機関では、哀悼の意をあらわすため、午後2時46分に1分間の黙祷を行う予定です。
私は当時、民間の会社におりまして、ちょうど京浜工業地帯にある工場の応接室で、お客さんと一緒にコーヒーを飲んでいるところでした。工場内に地震警報が鳴り、避難指示に従って建屋から出たとたんに、体験したこともない揺れがきました。
川崎~鶴見あたりの京浜工業地帯の大部分は埋立地ですから、地盤はそんなに強くない場所です。液状化現象の影響か、船に乗っているような変な揺れ方だったのを覚えています。
工場は自動でブレーカーが落ち、瞬停となったのですが、工場外の信号機なども消えていました。揺れが収まってからも、何度か余震があり、しばらく工場の外で待機していたところ、行政から電話連絡があり、操業再開は翌日以降にするよう指示されたそうで、従業員の我々は帰ってよし、ということになりました。
帰りがけ、駅までの道を歩きながら(もちろん電車なども動かないわけですが)、当時もっていたワンセグケータイでテレビニュースをチェックすると、ちょうど大津波で車等が飲み込まれていくのをヘリから撮影している中継をみました。自分が海沿いにいたということもあり、大変に驚愕し、戦慄したことをよく覚えています。
工場の最寄駅には、電車が止まっていました。運転再開の見込みはたっていません、という駅員の呼びかけもありましたが、1時間ほど、電車の中で待ってみました。しかし、一向に電力が回復する見込みもないため、自宅まで歩くしかないか、と移動を始めました。
車で1時間ほどの距離で、道はよくわかっているものの、徒歩となると途方もない距離でトホホな(駄洒落すみません)状態でしたが、同じ方向に行軍する方々と話しながら、3時間ほど歩き続けました。そのくらい時間がたつと、ケータイがつながるようになり、近所に住む実父に連絡がとれましたので、車を出してもらって、なんとか20時頃に帰宅することができました。
私の自宅は丘の上にあって少々不便な場所ではありますが地盤は強いところです。幸いにも、家具が倒れたりはありませんでした。食器棚の中でワイングラスが3本ほど割れていた程度でした。しかし、翌日に確認すると地震対策として家具を壁に固定していたネジは壁板から難なく抜けており、ねじ止めの地震対策はまったく意味がなかったことが判明しました。現在は子供が引っ張ったくらいではびくともしないほど、がっちり固定してあります。
現在、新型コロナウイルスの影響でいろんなイベントが中止になったり学校が休校になったりしています。9年前の自粛ムードをすこし思い出します。テレビではACのCMしか流れませんでしたね(ポポポポーン)。必要な自粛ならいいのですが、あまり過剰な反応は、経済の冷え込みを呼ぶだけです。しっかりと対策をとったうえで、極力消費を落とさないようにしていきたいと思います。
(そのためには消費税5%に戻してもらうのがいいと思いますけどね...)