二階堂進
二階堂進に関しては、献金発生当時官房長官を務めていた、ということから疑惑になっているのだろうが、ことロッキードに関していえば特につながりは感じられない。ただ、コーチャンの証言で名前が出てくると言うことは、アメリカとの関わりで何らかの疑惑があることを示しているのではないか。
二階堂は鹿児島の名家出身とされる。そして戦前の昭和7年から16年にかけてアメリカに留学しており、南カリフォルニア大学に通ったとされる。同時期に三木武夫も南カリフォルニア大学に通っていたともされ、ここで面識があった上での後の政界入りにもつながってゆくのではないかと考えられる。ただ、三木に関してはそのアメリカにおける経歴は少し怪しいので何とも言えない。戦後、二階堂がなかなか当選できなかった時期に話を聞いたりした三木が少しつまんだ可能性もある。一方で二階堂もアメリカで日米友好のために遊説をした、という話は三木からつまんでいそう。
問題はこの資金がどこから出たか、という事であるが、前年の昭和6年の年末に若槻礼次郎内閣が倒れ、井上準之助蔵相が進めていた金解禁政策が撤回される。井上は、無制限の金兌換によって円とドルの為替を固定させていたが、それが撤回されたことによって急速に円安が進んだ。つまり、それまでにドルを持っていた人々は円安によって巨額の為替差益を得たことになるのだ。おそらく二階堂と三木の留学費用はこの為替差益によるものであり、そしてその金解禁の撤回は、日本経済の犠牲の下に世界恐慌を終わらせるのに大きく貢献した。アメリカでは1932年(昭和7年)の選挙でフーバー政権が倒れ、翌1933年からルーズベルトが大統領となってニューディール政策を進めた。その財源は当然国債であり、それはドルの信用が高くなければ発行できなかった。つまり、日本が金輸出を止めたことによって初めてドルの信用力が回復するという、非常に皮肉な帰結になったのだ。本来ならば無制限に兌換を行うという国の信用度が高いのが当然であり、そしてそれは日本国内的にも、各種の物価が下がって非常に良いことであった。金の無制限兌換によって為替が安定していれば、貿易による収入も確保できることになり、生産も混乱する必要もなく、淡々と金兌換を進めていれば、フーバーも言っていたとおり株式相場の混乱などは一時的なもので、大恐慌と呼ぶべき物にはならなかった。それが、井上準之助が年末の為替取引中止期間を発表した隙に若槻礼次郎内閣を倒し、大蔵大臣が高橋是清に替わって金兌換が停止されるという不意打ち政策が行われたことで世界恐慌の被害が拡大したと言うべきなのだ。高橋は、日露戦争の時に金融資本から戦時資金を調達しており、戦争などの混乱による儲け方をよく知っており、またその方面の人脈も豊富であったと言える。その筋の政策を不意打ちで導入することで、せっかく積み上げてきた日本の信用を犠牲にして、そしてフーバー政権を倒してルーズベルト政権が成立するのを後押しし、そして最終的には戦争に導いたと言うことになるのだ。
そんなことがあったためか、二階堂と三木の留学していた南カリフォルニア大学は、ちょうどその時期に急速に規模を拡大し、外国人留学生も多く受け入れるようになり、そして1935年ルーズベルトに名誉学位を贈っている。その前年にはアメリカを訪問していた徳川家達にも名誉博士号が贈られている。このあたりのことも突っ込んでゆくとどんどん怪しい話が出てくるのだが、ロッキードからは直接はどんどん離れて行ってしまうので、ここでは触れることはしない。
歴史的文脈について少しだけ触れておくと、二階堂氏というのは、鎌倉時代の歴史書吾妻鏡の成立に深く関わっているのではないかと言われている。吾妻鏡は鎌倉時代の基本的資料であり、その内容は多くが歴史的事実として採用されている。しかしながら、私の個人的感覚では、そこには多くの歴史的事実とは異なることが書かれており、それを事実として押しつけることが鎌倉幕府から始まって室町、そして江戸と続く征夷大将軍による支配体系を権威づけていると言える。吾妻鏡を見てもわかるように、鎌倉幕府というのは実質的には執権の北条氏を中心とした合議体制であったのだが、それが将軍の開いた幕府の下で、という部分が強調されることで、特に徳川という権威は保たれてきたことになる。それが、ここで二階堂進と徳川家達を結びつける、一つの長期的な要因となっていたとも言える。そんなことでもなければ、満州事変や支那事変で悪化する一方の日米関係の中、何の伝手もなさそうな二階堂が大恐慌期から日米戦争が始まるまでの9年間も、アメリカに一人で滞在できる理由は見つからなさそう。一方で、北条氏の方の文脈を引き継いだ後北条氏が本拠としたとされる小田原という場所も重要となり、そこにつながると言うことがここで二階堂の名が出てきた理由の一つなのかも知れないが、それはまた後ほど書くことになろう。
戦争直前に帰国した二階堂は、しばらく外務省に勤務するが、すぐに退職し、大政翼賛会の推薦を受けずに選挙に立候補するが落選し、山本実彦の秘書となる。そのつながりもあってか、戦後には日本協同党に参加する。その後、民主自由党で1回当選したが、自由党の吉田政権下では当選できず、自由民主党が結成され、鳩山政権となってからようやく安定して当選するようになる。民主自由党に移ったいきさつは明かではないが、国民民主党を経由していないので、おそらく石炭国家管理法に絡んで民自党に移ったのではないかと考えられる。そこで田中とつながってくるのかも知れない。いずれにしても、その行動が嫌われてその後2回連続落選に至ったと考えられる。その後鳩山政権から岸政権となると、ようやく自民党に参加した佐藤派に参加した。これも田中と行動を共にした結果であろう。そこからはずっと田中について、労働政務次官、衆議院建設委員長、商工委員長などを歴任し、第1次佐藤再改造内閣の科学技術庁長官兼北海道開発庁長官として初入閣。汚職があったとしたら、このあたりで鉄道がらみであったのかもしれないが、ロッキードにはつながりそうもない。そして田中政権で官房長官、幹事長を歴任する。幹事長は49年の11月から12月にかけての1ヶ月間だけだが、確かにその動きを見ると、官房長官時代に何かがあって、そのアリバイ工作のために崩壊直前の田中内閣で官房長官から外れたという事はあるのかもしれない。そのあたりのスマートな処理の仕方は、アメリカ仕込みなのかも知れない。
参考
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